本願力
| 著 者 | 増井 悟朗 師 |
| 掲載号 | 華光誌 54-2号 平成7年4月発行 |
他力といふは、如来の本願力なり。
『論』(論註・ 下)にいはく「本願力といふは、大菩薩、法身(ほっしん)のなかにおいて、つねに三昧(さんまい)にましま して、種々の身、種々の神通(じんつう)、種々の説法を現じたまふことを示す。
みな本願力より起こるをもってなり。 」(行巻)
華光大会の特色
華光会の行事のなかでも、一番大勢参加者が集まられるのが、この華光大会です。
かっては、華光同人の物故者の追悼法要を兼ねて、生存者が道を求め、仏法讃嘆して、浄土を目指して毎年集まっていました。
それが人数が増えて、華光会館を造ったわけです。
会館が出来てからでも40年近くたちます。
毎年、全国各地から大勢で寝食を共にしながら、名前も充分知らぬ烏合(うごう)の衆ですが、時間どおりに集合し、ご法話、座談、体験発表、食事と、不思議にも長年つづいてまいりました。
このお互いの盛り上がる力で、今日の集いも頂いたわけです。
青年の集会では、女の方でも始めから足投げ出して座ってられます。
形式やプライドにこだわらず、大事なことを聞いたり語りあって、それなりに統制がとれながら、今日まできているわけです。
身分や職業や年齢差など問題外で、ご法話している私も、皆さんのお仲間です。
少し違うのは、衣を着て 、ちょっと小難しいお経の言葉を申上げるだけで、腹底は浅ましい、我ながら目も当てられません。
だから 、「一味の安心、同じ如来様を共にいただく兄弟に、少しも早くなりましょうや」と、ご法話は一応一時間です 。
その後は「わが信やいかに、人の信やいかに」と、心を包まず語り合い、一人でも多く、そして早く信に 目覚めてほしいので、座談会を持ちます。
このご法話も、そのための問題意識を持って聞いてほしいのです。
聞い て有難くなって、何も言うことないで終わらないよう、前もってお願いしておきます。
他力の定義付け
さて、このご讃文は、「他力釈」(たりきしゃく)といって、『教行信証』の行巻に、聖人が他力をご解釈される初めのご文です。
他力本願というと、依存主義的な代名詞に使われがちなのが一般の風潮ですが、それは大間違いです。
聖人は、『他力といふは、如来の本願力なり』と明快に定義付けておられます。
如来、つまり阿弥陀如来が 、私の為に因位(いんに)の法蔵菩薩のご修行をして下さり、「どうか我と同じ仏にならしてやりたい」と願いを起こ して下さった。
そしてその願いを実現するための実力をつけて下さった。
この本願力を、他力というのだとね。
もう少し具体的にいうと、「南無阿弥陀仏を信じて称える身になっておくれ。
そうすれば、私と同じ仏になれるのだ」。
これが本願力ということです。
本願力の解釈
その次のご文です。
天親菩薩の『浄土論』を解釈された曇鸞大師の『論註』を、聖人が引用されて、曇鸞様の本願力の解釈を述べておられます。
『論』にいはく『本願力といふは、大菩薩(聖人のお考えでは、法蔵菩薩以外にはないわけですが)、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種々の身(いろいろの体)、種々の神通、種々の説法を現じたまふ』これを本願力と言うのだと。
『みな本願力より起こるをもってなり』と結んでおられるわけです。
そこで今日お話したいのは、阿弥陀様が、私の為に、法蔵菩薩になり下がり、もう一度願を起こし修行のし直しをして下さった。
それが私の上にどう表れてくるのか? 私を救うための南無阿弥陀仏をご成就下さり、私がどんなに拒否しても、シャニムニねじ込んで下さるためには、どれだけのお手立てがあったのか?
それを拒否し続けて来たのが、私共の今日までの迷いの姿ですよね。
それが今この場所に足を運んで話を聞くようになるというのは、全く本願力ならざるはないわけです。
こんな私を手なずけなさるには、どれほどのお手間がかかったことかということが、『大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種々の身』つまりいろいろに変身して下さり、『種々の神通力、種々の説法』をもって、聞く気のない私に、 いやでもおうでも聞いてもらいたいと取り組んできて下さったんだというのです。
それが本願力なんだよとい うのが曇鸞様のお示しで、その辺りをお話し申上げます。
二つの要点
これには二つの聞きどころがあります。
一つは、仏様は、なぜそこまで私に思いを寄せて下さるのかという事 です。
それは、仏様の目には、捨てておけない哀れな私の姿が映っていらっしゃるのです。
もう一つは、そんな私に、仏様 と同じ徳を与えて、迷わぬ身にして悟りを開かせてやりたいのです。
この二つの立場から、様々なお手立てが起こ ってきます。
それが、種々な変身と、種々な神通力と種々なご説法になって、私の胸に届けられるようになってきたのです。
昨日の私の座談グループの方が、「お経様は、浄土往生の目や足だと聞いているのに、いくら読んでも私の助かる方法は書いてない。
反対に、助からんやつじゃという事ばかりが胸に響いてくる」と言われました。
し かしそれこそが、私の哀れな実体を知らされているのではないでしょうか。
それゆえ、阿弥陀様は、救わずにおれずに他力往生の方法論を完成して下さったのではないでしょうか。
そこを聞けば、「私は、どうしたらいいのか? どう求め、どう思ったらいいのか?」という必要は何ひとつないのだと知られてきます。
他力とは、見事なものではありませんか。
「ウソつくな、腹たてるな、愚痴言いなさんな」とは、一言もおっしゃっていません。
阿弥陀様と釈尊のお慈悲
こう言うと、「ではなぜ、先生の本には、無常や罪悪をしっかり取りつめよと書いているのですか」と問われましょう。
それは、お釈迦様のご説法の立場なのです。
お釈迦様は、この私を、何とか早く阿弥陀様のご本願に会わせてやりたいからなんです。
事実、私は無常の嵐のただ中に立っています。
しかも静かに立っているのではなくて、仏眼には、無茶苦茶な悪業のかぎりを尽くしている姿が映っています。
自分でまともと思っているだけです。
しかもそれを哀れと思わずに、臨終で「しまった! しっかり聞法すべきだった」と、世事にふり回されて、金や家族や体の、滅びゆくもの、捨てゆくべきものに浮身をやつして、迷いの世界を自分で繰り広げてきた。
お釈迦様は、この私が造罪と後悔の生き死にを、果てしなく繰り返してきたのを、「見ちゃおれん」とご説法下さったのです。
『大経』下巻のお示しです。
ここをよく聞くことにより、弥陀の本願の出発点に気付くのです。
この自分の哀れさを知ると「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞いちにんがためなりけり」と同心できます。
そこで次に、こんな私のための仏様が、身を粉々にしてどのようにご苦労下さったかが飲み込めるのです。
つまり、病人が薬を飲むのに例えると、第一は自分の病苦に気付くことです。
第二には、薬の効能を知ることです。
するとこちらから頼みもしないのに、よくまあこれほどのお薬を作って下さったかと、飲まずにおれなくなります。
今のご文をこのように味わってゆきます。
息子の結婚
話が変わるようですが、過日息子が結婚して、明日の最後のご法縁で祝賀会を持っていただきますね。
結婚は、人生の大きな節目です。
縁が結ばれて他人同士が共同生活を始めます。
そこで周りから祝福されて「よかったね、お幸せにね」と祝辞をもらうのですが、よく考えてみたら、なぜ結婚がめでたいのですか?
昨日も、ある方が「先生、おめでとう。
よかったですね。
私の方も孫が生まれて、二人のおじいちゃんになりました」。
私の答えは「ああ、それはめでたいことですね」。
しかし、本当にめでたいのですか?世間ではそういう事になっていますが、何故、結婚や出産すると「おめでとう」と言うのですか?還暦だの喜寿だのと長寿を祝うのは、それは何故なんでしょうか?
夫婦は五百生の敵(ごひゃくしょうのかたき)
私は、結婚の祝辞に、伊藤先生から聞かされた言葉をよくはなむけにします。
今回は、Kさんがそれを言って下さった。
それは「夫婦は、五百生の敵」だというのです。
五百回も生まれ変わってきた敵付き合いです。
「江戸の敵を長崎で」といますが、五百生目にやっと不倶戴天(ふぐたいてん)の敵に宿年の仇をはらす、それが夫婦だというのです。
怖いですよ、これは。
これは、戦前のことで、今の時代には合わないでしょうか、戦時中、楠木正成(くすのきまさしげ)の「 七生報国」が流行しました。
「七回生まれ変わって国賊を滅ぼそう」と。
仏教の言葉で、国賊とは煩悩のことですが、足利尊氏(あしかがたかうじ)を滅ぼそうという人間の怨念(おんねん)、執念を吐露しています。
それが夫婦の場合は、五百生というのだから、よほどの宿縁ですね。
浮いた生活も、ひと月、ふた月するうちに、「あれ、こんなはずじゃなかったがな」となってきます。
相手もそう思っています。
いや、相手方の親たちも思っています。
「こいつは、一生の不作やな」と。
まあ結婚は、それを何度も乗り越えてゆくのですね。
今ごろは、サッサと別れる人もいます。
「人生の勲章や。
バツイチ、 バツニ」とか言ってですね。
では何故こんなことになるのがめでたいのですか?仏法から言うと五百生もの仇敵同士だというのですよ。
皆さんはお笑いになっているが、ずいぶん経験がおありでしょう。
「あんた、そこまで言うのなら、私も言わせてもらいます」「エエ! おまえは、そんな事までおぼえてるのか」と、業と業とが絡み合ってきます。
手もつけられません。
他人の寄り集まりですからね。
で、何故そんなのがめでたいのですか。
業の絡みあい
私は、自分の結婚を通して考えました。
独身時代は罪も軽かったが、結婚生活は、全く業の違う者同士だから、業の絡みが複雑になる。
自分一人の業の処理の仕方ではすみません。
子供が生まれれば、生活費もかさみます。
蓄財のためには、ウソもつき腹もたて、気苦労も倍増します。
今私共は、おじいちゃん、おばあちゃんの立場で、しかも女の外孫で、名古屋ですから、たまにしか会いません。
「京都じいちゃん」と呼ばれるとホロッとします。
が、二、三日もすると、「早よ帰ってくれ。
体がもたんわ」となってきます。
今度は、家孫となるとサア大変!役立つ間は「おじいちゃんの所に行ってこい」で、いやおうなしに孫と四つに組むでしょう 。
体力は落ち、頭も駄目になります。
「早よ死んでしまえ。
おじいちゃん、何時まで生きてるねん?」とでも言われたら、「こんな事、息子が言ったやろうか。
いや、息子は言わん…」と。
独身時代には想像もしなかった罪が 、ズーッと尾を引いてきますがな。
これでも、なぜめでたいのですか?
めでたく本懐を遂げる
そこがですね。
如来様が「いかにお前が哀れな代物か」と知らせて下さる。
そういったご縁が深くなるのではないですか。
独身では知れなかった我欲と虚偽に満ちた自分の実体にふれて、聞法のご縁が深まります。
かって一度もできなかった迷いを断ち切るべきチャンスを沢山いただけるから、「おめでとうございます」と 心から言えるわけです。
私はそう味わっています。
だから、どうしても五百生目の敵を討たねばなりません。
言葉や態度で、切ったり切られたりして、それだけでフラフラになっていてはだめです。
サッサと仏法を聞くことです。
獲信して如来様の子になるのです。
仏になってしまったら、相手がおらなくてなって敵討ちが終わります。
どちらが先でも、早いもの勝ちのです。
それで五百生目は終わりです。
ひとりになった相手は、また一生目から出直しで、誰か相手を探さにゃならんのです。
笑い話のようですがネ。
一つ残念なのは、この五百生の敵がどの経に説かれているかを伊藤先生に聞き忘れたことです。
自分で調べても見当たりません。
たぶん『仏説伊藤康善経』ではないかと思ったりしています。
冗談のようですが、このお話をするのは、私達は生き 死にを繰り返してきた迷いの身だと申し上げたかったのです。
そしてその迷いを断ち切って、迷わぬ身にしてもらうのです。
そのために今まで自力の大菩提心を起こして懸命に頑張った時もあると聞かされています。
しかしいまだに迷ってきた裏には、「おまえ一人を迷わしはせぬ。
必ず仏にしてみせる」と立ち上がってくださった仏様 に、「ああ、どうして聞いてくれぬ、信じないのか。
いつまでも頑固に心を閉ざしているのか」とお嘆きさ せてきた。
そこに思いが至っていただきたいからです。
法蔵菩薩のお徳
さて御文にかえります。
『大菩薩、法身の中において』「大菩薩」とは、上述のように法蔵菩薩のことです。
その「法身」とは、どの仏様にも三身があって、法身・報身・応身(ほっしん・ほうじん・おうじん)の三種類のお体があります。
法身が根本ですが、衆生済度のかかわり方で、時には報身となり、応身の姿をとってくださる。
いま『法身のなかにおいて、つねに三昧』にあるといわれます。
「三昧」とは、精神集中して、何があっても心が乱れない禅定の境地という事です。
五十二段ある菩薩の位の中で、法蔵菩薩は四十八段目の八地以上です。
その境地に立って、『種々の身、種々の神通、種々の説法を現じたもう』というのです。
六神通のこと
「種々の身」の前に「神通」から申します。
神通とは六神通のことで、修行によって得られた超能力のことです。
まず「神足通(じんそくつう)」、思いどおりにどこへでも飛んで行ける。
孫悟空みたいですね。
「天眼通(てんげんつう)」、ここにいながら一切の衆生の悲しみ苦しみを見通すことができる。
「天耳通(てんにつう)」、同じく一切衆生の苦しみや喜びを聞く 力。
四番目が「他心通(たしんつう)」で、相手の心が手にとるようにわかる。
この四つを身につけられたら便利でしょう。
商人は、ある意味で天眼通や他心通などができる。
買う客か買わな い客か、長年の経験でわかるようですね。
値切る人は買う。
「安いな」とほめる人はひやかしだとかね。
五つ目は「宿命通(しゅくみょうつう)」、自分や相手の過去がわかる。
以上の五神通は、仏様でなくても、修行によって得られます。
霊能をとやかくいう時代になったが、そんな人達もあるでしょうね。
中には、修行をせんでも、前生での通力を持って生まれてきた人もあると思います。
ところが最後の煩悩を断ち尽くした「漏尽通(ろじんつう)」だけは、仏様しかいません。
この六神通を自由自在に使いなさるのが法蔵菩薩様ということです。
種々の変身と説法
「種々の身」というのは、そのお体を自由自在に変現できます。
私を救済するために、現に親や妻子になったり、畜生道のときには、動物や鳥の親子として生まれてきたりなさいます。
それが出来るのが大菩薩、法蔵菩薩です。
今日私達は、無数の殺生をせずに生活ができません。
食事を考えても大きな罪です。
天地創造というキリス ト教では、人間のために神様がすべての食べ物を造られたと言うようですが、仏教は違います。
一切衆生は「いつの世にか仏になっておくれよ」の仏の願いのかかった存在です。
これを私が食べ物としているのだから、仏様にも一切衆生に対しても申し訳ないです。
私のこの体は、罪業のかたまりです。
だが、それを「引き受けた。
地獄に落とさぬ」とおっしゃいます。
そのための本願と修行をやりとげられました。
これが「種々の身」を現わすことができるという事です。
食膳の魚や肉になって下さいます。
私が今日まで食べてきたものは、みな仏様のお命だったのです。
「何としても南無阿弥陀仏を受け取って、仏になってもらいたい」の願いが根本だから、この変身ができないお方じゃありません。
私の落ちる地獄の釜底(かまぞこ)で、大手ひろげて「おまえを落とさぬ。
地獄の業苦は、私が代わって 受けよう。
どんなに責め苦が重く苦しく辛かろうとも、私が代わって受けよう」。
そうおっしゃる姿が、私に食べられている魚、お肉ではないですか? 姿形を見て、仏とは思われないですが、親であったり、子供や姑であったりするのではないですか。
そしてさらに、人生の無常、私の腹底を知らせるべく、ここに種々の説法をしてくださる。
「常於(じょうお)大衆中、説法師子吼(ししく)」と『重誓偈』、「ものみな空(むな)しあだなれや、水面(みなも)の月に、電・影・露、まぼろしの身と説きたも う」と『十二礼』のようにご説法くださる。
「人生は無常ぞ。
しかもかくも浅ましい事をせねば生きられぬ。
だがこの迷いは、私が断ち切って仏にさせてみせる。
早く南無阿弥陀仏にとびこんで来なさい」と、声なき声が響きわたって下さっています。
本願力のご回向
これは、種々に善巧方便(ぜんぎょうほうべん)してくださるあの手この手のことです。
そしてついには、私を南無阿弥陀仏の前に放り出して、否応(いやおう)いわさず 「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」の勅命となってきます。
そこで私は、「ああ、雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)は役に立たなんだ。
申し訳ない。
おまかせいたします」と摂取されるのです。
そこまでの数々のご苦労を、このお言葉でお示しくださっていると味わせてもらいます。
「うちの嫁、これが大菩薩の姿か。
ありがとう、南無阿弥陀仏」。
なかなかそう言われませんが、けれど、この私にどれだけ憎まれ、怨まれようとも、その嫁は仏様なのです。
この私を済度するために、あらゆる手段方法をこうじて、火の中、水の中。
あらゆる者に姿を変えなきゃ、この私を救済出来ないと見抜いたら、これだけの事をやり抜きなさったのが、『みな本願力より起こるをもってなり』。
しかもこのものすごい力、 その功徳の全部を、南無阿弥陀仏に入れこんで、本願力回向、他力回向として受け取ってくれと言われているのが、私どもじゃございませんか。
痴無明(黒い心)と疑無明(暗い心)
ところで、真宗では無明について、痴無明(ちむみょう)と疑無明(ぎむみょう)の二つを教えます。
痴無明とは黒い心、悪業を生み出す煩悩のことです。
疑無明とは暗い心といって、本願力に対する疑惑心です。
これは、本願を聞いてゆかないと知れてきません。
痴無明は、凡夫の生地だから、これが本願のお目当てです。
ところが聖道門では、痴無明を破れと教えなさいます。
悪業や、その根本である煩悩を破りなさい。
それが成仏への道だというから、難行苦行しなければいけません。
私ら凡夫が、その真似をすると、さらに悪業煩悩を重ねていくしかありません。
借金で首の回らない者が、借金払いのために借金を重ねるようなもので、ますます泥沼です。
「唯知作悪(ゆいちさあく)、曾無一善(ぞうむいちぜん)」といわれる凡夫が、ちょっと善い事をしたら「してあげた」となって、周囲に無残な結果をふりまいていきます。
真宗では、この痴無明は阿弥陀様のお目当ての心です。
それを救うために、大菩薩が種々の身、種々の神通、種々の説法をもって必ず救うから、「引き受けた。
そのまま持って来い」と許して下さっています。
ところが、疑無明のほうは、この本願の勅命にたいして、「ハイ、ありがとうございました」と頭で合点するが、腹底はうなずけません。
「これでええのだろうか?話がうますぎるが。
これでいいのなら、こんなうれしいことはないのだけど」と、けどが付いて心がスッキリしません。
この「どうしたら?」というのが、 疑無明なのです。
これが、「死ぬぞ!後生はどうか?」と目をつぶって取りつめると、悪業も煩悩も仏様に手渡した覚えがありません。
生地が生地だから、行く先は真っ暗、疑無明を暗い心といわれるわけです。
この疑無明 、「どうしたらいいのか?」は、捨てものだと教えます。
事実、もらいものの本願力回向の白い心をいただくと、この暗い心はスッキリと消え去って、「どうしたら」が二度と出てこなくなります。
ここが真宗の大切な聞き所です。
調熟の色光と摂取の心光
無明は光明によって破られるのですが、阿弥陀様の仏徳としての光明には、二つのお働きがあります。
痴無明と疑無明とにたいして働いて下さいます。
これを調熟(ちょうじゅく)の色光(しきこう)と摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)と二つにわけていただきます。
先刻来の本願力のご説明が、調熟の光明にあたるのです。
聞信せずにおれんところまで、あの手この手で育てあげて 下さる。
その熟し柿が、ポトンと仏の口の中に落ちる。
仏凡一体(ぶつぼんいったい)、摂取の光明にあう。
如来様のお心をいただき、お心にかなう。
そこが信心決定の境地でございます。
如来様が大満足
それでは、これを誰が最もよろこぶのか?これだけの長い間の調熟のお育てを下さった仏様です。
正覚をお取りになってから、一劫たてどもまだ見えず、二劫たてども何をしとるんか。
「弥陀成仏のこのかたは 、今に十劫をへたまえり」。
そうです。
阿弥陀様に「ハイ」の返事ができなかったこの疑心が、ついに摂取の光明によってぶち破られるのであります。
だから、調え調え調えてきてくださった。
これを、自分の力で調えてきたようにうぬぼれているから、「これだけ聞いてるのに、なぜわからんのか?もう私は腹が立つ だけ。
これ以上聞く気はありません。
苦しいだけです」と悲鳴をあげる人があるでしょう。
でも自分の側は見えても、仏様の悲鳴は聞こえてこないですね。
そして、どんなに毒づいても、やはり求めずにはおれません。
聞かずにおれんというのはどうしてでしょうか。
そこが、聞かさずにおかぬという仏様のお手回しの証拠ですよ。
阿弥陀様は後へは引きなさらん。
三世・十方の諸仏の前で、「もし衆生が往生せねば、われも正覚をとらぬ」と誓われて、衆生の胸をめがけて弓につがえた南無阿弥陀仏の矢は、この世の矢は力尽きて落ちるが、南無阿弥陀仏の矢は止まれないのです。
だから、私の胸にブスッと突き刺さるまで、摂取の光明として届くまで、働きつづけ、休む間なし、眠る間なしなんです。
そのご念力のおかげで、今この私を、しぶしぶここに座らせて、「これだけ一生懸命になっているのに・・・」と言わせなさいます。
こんなに口ぎたなく、恩きせがましく毒づいても、「そうかそうか、さぞ辛かろう。
えらかろう。
頑張って聞いておくれや」。
しかも、これほどまで にお待たせ申したのに、やっと仏の願いが自分の胸に届いたら、どう言うか。
「さして喜べません。
たいしてうれしくありません」と文句です。
その反対に「うれしゅうてたまりません」といったりします。
どう言おうとも、自分の側の感情とか、気持ちだけしか言いようがないのが、この私ですね。
しかし、ここまで下地ごしらえして、ここまでお手立てくださった如来様のほうは、「でかした!今日の日を待っとったんじゃ」と、うれしくてうれしくて、じっとしておれんと大満足、大歓喜。
皆さん、そうは思われませんか?
光明摂取
善導和讃に、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀は心光摂護(しんこうしょうご)して(摂取の心光ですわ) ながく生死をへだてける」。
これは私を思う阿弥陀様のお心を、親鸞様が讃えられたご和讃ですね。
私は「「金剛堅固の信心」をひたすら求めています。
人になんと言われようが、どんな人に出くわそうが、ビクともしない信心です。
逆境・順境を問題にせず、三悪道を突き破っていくだけの信心をいただきたいと求めてきました。
だが、この大信心を成就して、与えて下さるのが如来様だから、どうすれば早く 受け取るのかと待ちわびて下さったのが、この調熟の光明のお育てであります。
種々に姿を変え、神通力を現し、私にはいやな言葉であってもご説法して下さいます。
かわいい人がポックリ死んで無常を知らせてくれます 。
私の人生をあげて、親になり子となり兄弟となり、あらゆる人間関係を作って下さいました。
ときに金銭問題 で苦しみ、体の問題で苦しんでいきます。
それらを通して、私の世界には真実は何もありません。
迷いの種ばかりだと気付かせて、真実を身をもってわからせたいとのご方便、これみな調熟の光明ならざるはないでしょう。
そこでこの私が、「ああ、永々の調熟の光明であった。
永のお育てをこうむっていた。
全く私一人のためのご本願でございました。」と気付く時、その時摂取の光明におさめ取られるのです。
おさめ取られるから、調熟の光明をまる受けできるのです。
こういう仕組みが、私の知らぬ所で仕上がっていて、それが産声として私の口から南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と出て下さいます。
それを今日か今日かと待ちかねて下さっています。
「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀は心光摂護して ながく生死をへだてける」「ついに迷わぬ身になってくれたか!ああ、うれしや、大満足。
ありがとう」と仏様が私にお礼を言って下さいます。
「えらい子だ。
人の中の白蓮華、 人の中の好人よ」と。
親が子供をほめなさいます。
これが、釈尊や阿弥陀様、諸仏方の思いです。
親の宝は子の宝
さて、わが身を省みると、その思いをかけられる値打ちのある自分だろうか?日々の生活、心中を反省 すれば、まるで正反対です。
だが、「こんな者でも助かる?」ではありません。
「こんな者をこそ、お目当て」なんです。
光明となって、このお粗末さ加減を知らせて下さる。
千々に体を砕いて目にもの見せてくださる。
言葉 となって聞かせてくださる。
これだけのお手立てを前にしては、私には何も足すものがありません。
「このまま」 お任せするしかありません。
その仏徳が南無阿弥陀仏の中にそのまま入れこまれて「受け取ってくれ、聞いてくれ 、分かってくれ」と「正覚大音 響流(こうる)十方」ととどろきわたっています。
声なき声。
けれど、様々に目にもの見せて聞こえて下さる説法です。
目にもの見せて、種々の身を現じて下さいます。
だから、この私に不思議と知れてきます。
知れてくると、不可称、不可説、不可思議としか言いようがありません。
「それを計らっておりました。
なんたる浅ましい事でありました」と、もう泣くより他にありません。
称えるより他にないじゃないですか。
(平成6年 華光大会法話テープ)

華光(同人会)入会
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