人と成る
| 著 者 | 増井 信 師 |
| 掲載号 | 華光誌 54-1号 平成7年1月発行 |
人身(にんじん)受け難(がた)し、今(いま)已(すで)に受く。仏法聞き難(がた)し、今(いま)已(すで)に聞く。この身今生(こんじょう)に向かって度(ど)せずんば、さらにいずれの生(しょう)に向かってかこの身を度(ど)せん。(礼讃文)
結婚式でのこと
おかげさまで、本年10月30日、阿弥陀如来の尊前にて、結婚式を挙げさせていただきました。
そして披露宴や、華光大会での祝賀会でも、皆様から温かいご配慮やご声援をいただきました。
本当に身に余る祝福に恐縮するばかりです。
出産、入学、就職、栄転、新築、そしておめでたい節目の行事など、お祝い事は色々ありますが、結婚は、人生最良の祝い事ですね。
そのために世間では、大枚をはたいて披露宴を催し、その幸福が末永く続くことを願って、縁起をかつぎ、日を選び、また言葉を選んでお祝いをします。
ところが、仏法を聞かせてもらうと、そんなことが如何に無意味であるかがわかるのです。
それ以上に、彼女の方は、結婚後の華光会館での未知の生活を思い悩んで、結婚には、世間で言うような夢も希望もなかったようですが、まあ、それは言い過ぎとしても、二人とも、特に結婚式というセレモニーに対しては、甘い期待はありませんでした。
式場が暇なこともあって、挙式は仏滅でした。
披露宴での祝辞をとっても、「一人死ぬ、孤独、別れ離れ、夫婦は仇(かたき)、お浄土へ」などと、まず、世間の常識破りの言葉ばかりです。
でも、歯の浮くよ うなお世辞よりも、そんな本当のことを話してくださることがうれしく、想像していた以上に、有り難くも 尊いご法座となりました。
人生は孤独
中でも、大学の恩師である信楽峻麿(しがらとしまろ)先生のご祝辞は、身にしみてありがたいものでした 。
「人は、それぞれの業をもって生きている。
結局、話の分からんやつが隣に座っている。
“独生・独死・独去・独来”で、・畢竟(ひっきょう)、人生は孤独だということを実感するために結婚するのだ 」というのでした。
なにも、初めて聞く言葉ではありませんが、私一人に話してくださる初事として、お聞きする ことができました。
「人生は苦である」「人生は孤独である」-それにしても、なんとすごいことを教えていただけたのでし ょうか。
そして、次々と、法話のようなスピーチをいただきましたが、一つ一つの言葉を、共に味わい、念 仏に返していける伴侶(はんりょ)を得られたことを、本当に尊く思いました。
二通りの反応
ところが、披露宴の評判は、二通りに分かれました。
まず華光の人達は、私達同様に、有難い披露宴だったと喜んでくださった。
しかし、あまりご法話ばかり続くと、新婦側の皆さんのことが心配になりました。
案の定、日頃、仏法のご縁のない人にとっては(一応は安芸門徒ですが)、余興はともかくも、わけのわからん話が、長く続いたという印象しかなかったそうです。
でも、仏法は、年寄りが喜ぶものだと思っていたのに、若い人でもご法を喜んでいることに対する驚きはあったようですが、では、その内容はというと、全くチンプンカンプンだったようです。
もちろん、難しい仏語ならば、それもしかたがありませんが、例えば、「人生は孤独だ」とか「独り生まれ、独り死ぬのだ」というような言葉に対しても、まったく反響がありません。
むしろ「なぜ、おめでたい席で、そんなことを言うのだ」という否定的な反応でもあれば、それはそれなりに話し合いの材料にもなりますが、そんな疑問や引っ掛かりもなかったというのです。
全く、お育ての有無というしかありません。
しかしながら、この世に生をうけたかぎり、誰もが、人生は 苦であり、無常であり、孤独であることを、本当は気付いているのではないでしょうか。
義父が倒れる
事実、おめでたいはずの結婚式の五日前に、仕事場から帰った義父が、脳内出血のために、救急入院するというアクシデントに見舞われました。
おめでたい時だから、病気にならないとか、死なないとかいうわけではない。
おおみそかまでは人は死んでも、お正月はめでたいから、人は死なないというわけにはいかないのだと、日頃から、聞かせてもらっています。
実際、6月に結納した2日後にも、85歳になる“会館のおばちゃん”-父の姉が倒れて、ドンドン弱っていったのです。
詳細は省略しますが、病院の先生ですら、夏を越すのは難しいと診断していました。
ところが、その後の経過は、奇蹟的ともいうほど良好で、退院後は、寝たきりではありますが、機嫌良く日暮らしするまでに回復しています。
それでも、万が一、結婚式の直前に、お葬式をだすことがあるかも知れませんが 、その時はどうするかと、家族でも話し合ったりもしました。
しかし、それは、年寄りや病人だからであっ て、元気なものが倒れるなどとは、夢にも思わず、ただあわただしく、ウカウカと日暮らしを送っていたのでした。
それぞれの業
急を聞いた彼女は、式の準備もそこそこに、翌日に帰郷することになり、その夜は、眠れぬ一夜を過ごすことになったのです。
義母も動揺していたのか、電話では「入院して緊急手術をする」程度の情報しか伝えず、ますます不安が募ります。
泣き崩れながら、「これは起こるべくして起こった」と言い出しました。
自分が、これまで親の愛情に甘えて、やりたい放題をさせてもらってきた。
結婚の準備や経済的な問題にしても、親に苦労をかけっぱなしであって、その結果があらわれたのだといいます。
そして、もしも意識が戻らなければ、どうしょうと嘆き悲しむのです。
おかげで、仏法のことを話しあうご縁となりました。
しかし、慰めることはできないのです。
夫婦になるといっても 、また親子といっても、それぞれの業で生きているのです。
一人一人なんですよね。
どんなに責任を感じても、またかわいそうだと思っても、代わってあげることができません。
でも、これが人生の実相(じっそう)であることを、お聞かせにあずかっている以上、ただ嘆くだけなら、つまらないじゃないか。
ぜひ、義父さんも義母さんにも、仏法を聞いてもらおう。
万一、二度と立ち上がることがないその時は、それほどの犠牲をいただかんと、仏法も聞かん、お念仏も喜ばん、そんな私に対しての身をかけてのご催促と受け取ろう。
ただ私自身がお念仏を喜ばせてもらうしかないんじゃないか、という話になっていきました。
老病死の三使者
幸い、軽度だったこともあって、経過は順調で、義父は欠席のままでも、結婚式は滞りなくすみました。
それにしても、今度は順調に回復すると、その時の驚きや決意も、ドンドン風化していきます。
恥ずかしいことです。
しかし、人生はかくあるべしというのが、お釈迦さまの教え。
有名な四門出遊の逸話がそうでしょう。
その他に、『阿含経』(あごんきょう)という最も古いお経の一つに、こんな説話があります。
「仏、比丘に、告げたもう。
三使者あり。
老、病、死である。
衆生、身に悪を行ない、口に悪を言い、心に悪をおもい、身壊れ、命終わりて地獄の中に堕(お)つ。
獄卒(ごくそつ)、この罪人を 率いて、閻(えん)羅(ら)王(おう)にいたり、天使の召すところであるという。
王、罪人に問う。
“なんじ、人中にありて、第一の使いを見なかったか。
頭白く、歯落ち、目はかすみ、 肌緩み、背をかがめ、杖を柱として呻(うめ)きつつ行き、身体ふるえ、気力の衰える老人をみなかったか?”
かくて罪人のうなずく姿を見て、王は“なんじは、自分もこれと同じであるとは思わなかったか?”と。
罪人こたえて、“私は放逸(ほういつ)で、それをみずから知ることができなかった。
”
王曰く、“なんじは、みずから放逸にして、身口意を修め、悪を改めて善にしたがうことができなかった。
今、なんじは、放逸の苦を知らねばならぬ”」と。
まず、第一番目は、老人という使いです。
それと同様の問答が、第二の天使として、「病んで床に苦しみ、臭い所にいねて、いたみに呻(うめ)き泣く」病人を見なかったかどうか。
さらに、第三の使い 、「命終わり、諸根永く滅び、身は枯木のごとく、火のために焼かるる」死人を見なかったかと、次々に閻魔王が、罪人に詰問するというのです。
地獄の猛火が待つ
私達の周りの、老人、病人、死人は、実は、今は若くて元気に働いておる、私の姿そのものなのです。
たとえ仏法を聞いたことがなくても、この世に生をうけた誰もが、そんな使いを通して、人生が苦であり、無常であることに気付く機会を、浴びるほど得ているわけですね。
しかし、それらは、人生においてもっとも不幸なことで、一番、考えたくないこと。
そのために、それらを忌み嫌い、ごまかし、迷信や占いに心奪われ、縁起をかつぎ、神仏さえも利用していくのです。
そして、結局は、人生の現実に目をふさいだまま、目前の欲望に追われ、煩悩にまかせて、したい放題を繰り返しているのです。
では、そんな生き方の最後に、何が残るのでしょうか?
そこには、すべて自分の仕業で、その報いを自分が受けていかねばならぬ世界があるのです。
つまり、ただ「四方に四門ある大地獄」の猛火が待ち受けているのです。
しかも、それは誰のせいでもないのです。
「されば、なんじの罪を受けるのは、父母、兄弟、天、先祖、友達、召使、または沙門(しゃもん)、婆(ば)・羅(ら)門(もん)のあやまちではない。
なんじみずから悪を持つために、なんじがいまみずから受けるのである。
」と。
閻魔王の裁きは、まったくの自業自得の世界なのだと、お経には説かれているのです。
人間受生の意義
そして、そんな生き方を「迷いだ」と喝破されたお釈迦様は、単に、人生は苦で、無常で、孤独であると絶望し、悲観するのではなく、その「迷い」を離れるための教えを説いてくださったのです。
しかも、親鸞様は、そんな凡夫の身を持ったままで、生死を離れて悟りに至る身にさせてもらえるお念仏の道こそが、その正意であると、明らかにしてくださったのです。
ならば、そこのところを教えてもらった私達には、なんのために、この人間界に出させてもらったか。
な んのために生きているのかは明白なはずです。
ある仏青法座でのことです。
当時、龍大に入学したばかりの寺のご子息にたいして、中年の女性が、上記のような話をされて、こう付け加えられたのです。
「犬や猫では、仏法が聞けないが、人間は仏法を聞くことができる。
私達は、仏法を聞くために生まれて来たのよ」 すると、彼いわく、
「でも、犬や猫には、サッカーもできんし、車の運転もできない。
恋愛を楽しむのだって人間だけが出来るのと違いますか。
それも、人間に生まれた意義じゃないんですか」 お寺のボンですからね。
そんなことは百も承知なんでしょうが、反発もあるし、理屈も言いたかったのでしょう。
その時は、そんな楽しみが、本当に死ぬまで末通っていく真実なのかどうかという話題に展開していきましたが、おかしいぐらい彼の理屈はあっています。
皆さんにしても、人間に生まれた意義は、真実に会うためとか、仏法を聞くため、と答えられるでしょう 。
しかし、理屈や口先だけの答えはともかくも、本当に、そのための人生を歩んでいるのか。
人間に生まれたことを喜び、仏法に会いえたことを喜んで日暮らしをしているのか、と問われたならどうですか。
体に執着し、金儲(もう)けにおわれ、恋人や家族にとらわれ、この身を楽しませることに必死になっているのです。
この学生さんの言ったことが笑えませんよね。
自分の都合で感謝
今年の夏は異常に暑かった。
水不足も深刻でした。
京都でも「琵琶湖に感謝しましょう」の横断幕を見かけました。
では、昨年の夏はどうだったか。
長雨と冷夏で、夏物が売れずに景気は停滞する、米不足になるので、みんなウンザリして雨空を見上げたものです。
まあ、暑いといっては文句、寒いといっては文句。
雨が多いとか少ないとかで、また文句。
米がなくなると困るが、豊作が予想されると、輸入米はまずいと捨てられる。
梅雨は被害が出ない程度降って、夏は適当に暑くても残暑は厳しくなく、秋にはキレイに紅葉が色づいて、厳冬は嫌だが暖冬も困る…。
まあ、お天気一つとっても、過不足なく自分の都合がよい時だけ、「おかげさま」と感謝しているのではないでしょうか。
「コーヒーのみながら…」
「コーヒーのみながら、
このコーヒーいくらなんだろうと
考えている
コーヒーのみながら、
紅茶にすればよかったと
考えている
コーヒーのみながら、
コーヒーなんかのんで
よる眠れないのではないかと
考えている
コーヒーのみながら、
コーヒーのむ時間があれば
ほかのことができたのにと
考えている
コーヒーかわいそう」
(六浦基著「カウンセリング詩」より)
この詩、私達の生きざまを端的に表していると思いませんか? 与えられたものに感謝もしない、こころは切れぎれで一瞬一瞬も大事にしていない。
コーヒーを仏法に置き換えるともっと切実でしょう。
仏法を聞きながら値踏みし、華光会ではなくて××会にすればよかったかなと考え、仏法なんか聞いたから、夜眠れんと文句をいい、聞法する時間があれば大事な用事もできたのに…と、たった今、説教聴聞の時でさえ、心は千々に乱れているのではないですか。
仏法第一と思えども…
それでは、感謝の日暮らしは無理でも、必死に聞法していたら、仏法第一の生活と言えるのでしょうか?
ある聞法会でのことです。
華光会からも、熱心な求道者が参加されていました。
一方で、全く仏とも、法とも聞いたことのない若い女学生さんもいます。
初心組、法悦組、求道組-その中にも、初歩的な人から、長期間の膠着(こうちゃく)状態の方、ちょっと引いたような観察組まで-さまざまな動機の方が集まっていました。
もち ろん、最初は、聞法ベテラン組がリードする自己紹介になりました。
「地獄行き」だとか「今夜も知れない命」だとか「命懸けで聞く覚悟」……。
初めての方には、異常な世界でした。
怖くて口をはさむこともできません。
でも、それではいけないと思ったのか、わからないことがあると質問するようになりました。
「みんなが、キコウというのはなんですか」「それはキコウではなく、ケコウですよ」「じゃ、ケコウていうのはなんです か」といった具合です。
ところが、それでは、後生の一大事と踏み出して、夜明けが出来ずにいる人たちにとっては、物足りません。
みんな、時間をかけ、お金をかけて、数少ないご縁を結んでいるのですから、必死なんですね。
「こんな話を聞きにきたのではない。
一大事の突っ込んで話が聞ける、ご示談のグループを作ろう」とイライラされている。
しかし、そのことが、やっと心を開きかけた初心の人を、傷つけてしまいました。
受け入れてもらえそうだったのに、やっぱり邪魔者なんだと、外に飛び出していってしまったのです。
最後の感想で、「悟りを得るのか何か知らないが、他の人を思いやることもなく、頭がおかしいんじゃないですか」という意味の発言をされましたが、的を得ているだけに、空恐ろしく思いました。
三悪道の亡者
仏法を聞かせてもらうために、仏法を謗(そし)らす人を造ってしまいます。
これは、皆さんだって同じことです。
ここに自分が、時間やお金をやり繰りして聴聞に来ていると思っていますが、そのためには、不快な気分になりながら送り出したり、快く留守番をしてくださる方があるからではないですか。
そんな人たちの大きな犠牲の上に、私の聞法は成り立っているのです。
しかし、必死に求めている時は、「仏法を聞くため の人生。
後生の夜明けができずになんとする」と、自分の聞法態度を正当化するだけで、周りの人たちのことや、ましてや、仏様のお心などには気付くことができません。
でも、一歩下がって、その「聞きたい」と思う本性は何か、と問うてみます。
すると一大事のためには、他人を犠牲にしても構わない、人に負けたくないという自分中心の地獄の亡者が現れてきます。
しかも、求めているものは、ハッキリしたい、スッキリしたい、安心したい。
そのためには清浄、真実な如来様のご信心をもらわねばと、「欲しい欲しい」の餓鬼の心。
そのために厳しいご示談に会わねば、しっかり聴聞せねばと自分で目先の計らいばかりを繰り返している、愚かな畜生の姿ではないでしょうか?
人身受け難し、仏法聞き難し
仏法は、人間だけにしか聞けません。
しかし、この人間とは、なにも人間界に生まれた事実だけをさすのではありません。
実は、如来様の真実の前に立ってみるとき、この私は、人間の皮を着てはいますが、その心は、三悪道の亡者そのものではないでしょうか。
しかしです。
そんなに冷たく、欲深く、愚かな私でも、そのままやさしく受け入れてくださる温かさに触れさせてもらって、やっと人間らしく振る舞っていくことができるのではないでしょうか。
そんな自分であったことに気付かせてもらう、恥ずかしいなと懺悔させられるのは、人間だからでしょう。
仏法は、難しいことを聞くのでも、有難いことを聞くのでもなく、この私が、真に人間にならせてもらえ る道こそが、仏法を聞くということではないでしょうか?
「如来のご恩ということをば沙汰(さた)なくして、われもひとも、よしあしということのみを申しあえり」(『歎異抄』)…。
長年、求道している人たちは、わかったのわからんの、よかったの悪かったのと、自分の心を詮索(せんさく)せずにはおれない。
または自分の力で、仏様を理解しよう、有難くなろうと努力されている。
そんなことが聞法だと勘違いされているのです。
しかし、その前に、この私が人間に生まれさせてもらって、人間らしく振る舞わせてもらっておることの 有り難さ。
さらに、仏法を聞くご縁に連ならせてもらっている尊さを忘れているのではないか。
そんな不思議に浸りながらも、感謝どころか不平不満しかないこの私。
改めようとしても、我ながら愛想をつかしてしまうような・無(む)慚(ざん)無(む)愧(ぎ)の私。
しかし、そんな者にたいして、既に、すべてを見抜き抜いて、泣いてくださっている方があるのです。
その阿弥陀様の広大無辺のお慈悲に、そしてそのご恩徳の高きことに触れさせてもらってこそ、本当に、人間に生まれさせてもらった意義があるといえるのです。
(H6年12月・東海支部家庭法座にて)

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