信心の点数
著 者 | 増井 信 師 |
掲載号 | 華光誌 55-4号 平成8年10月発行 |
地獄行きの身
昔、三重の村田静照という立派な和尚様が、「ご参詣(さんけい)の皆さんは、お浄土参りの有り難い身になるためにお参りされているかもしれんが、それは間違い。
どうか、地獄行きの身になって下さい」と、おっしゃったそうです。
普通、聞法とは、仏様の有難さを聞かされ、だんだん法悦が増すことだと思いがちです。
しかし、それは誤りで、実は、地獄真っ逆さまの自己の値打ちを聞かせてもらうこと以外にはない。
地獄行きの身と本当に知らせてもらわなければ、引き受けて下さる仏様のご苦労にも気付かせてもらえない。
だから、この高山へ来られての観光気分はここまで。
これから先はしっかり地獄行きの身になって下さい。
自己を問う
それには、どこまでも自己を問題にせねばならない。
本当の自性、自己の値打ちを聞かせていただく。
皆さんは、「自分の事は、自分が一番よくわかってる」と思っておられる。
しかし、ここで言う自己とは、真実の仏様からご覧になった姿のことです。
だから、本当につまらん、浅ましい自分だと気づかせてもらうことが、大事なんですね。
では、自分を知らされたら、それでしまいかといえば、さらにその自分にかけて下さっている仏様のご苦労、仏願を聞かせてもらわねば、聞法にはならない。
この二つのどちらかが欠けても、信心決定は難しい。
自分の側ばかりを問題にしていては、おみのりは聞けない。
といって、仏様の有難い事ばかりで、自分自身がお留守では、単に有難い物語の拝聴に過ぎず、自己が問われてはきません。
そういう意味では、自己を聞くことは、同時に仏様のご苦労を聞かせてもらうことに他ならない。
常に、仏様の願いは、この私にかけられているのだが、残念ながら「オレが、オレが」の心で、そこに気付けずにいる。
それで「分かっている、知っている」を捨てて、「気づかなかった、見過ごしていた」地獄行きの姿や仏様のご苦労を聞かせてもらうことが、大切なことだと思うのです。
凡夫の自性
そのために「具体的に聞法せよ」というのが伊藤康善先生のお示しです。
そうしますと、今回の集まりも生きた聞法の材料です。
先程ズラッと高山の方がこの前に並ばれましたが、このお世話のために相当の時間やお金をかけて、ご苦労して下さってます。
なにせ皆さんは「せっかく高山に行くんだから、聞法だけでは惜しい」と、午前中から来て観光された方もある。
中には、前日から泊まった人もあれば、明後日居残る人もある。
いや、前日も泊まり、さらに居残る強者(つわもの)もいると聞きました。
「わざわざ遠くまで行くんだから」と恩着せて、観光したい気持ちが半分。
「いや、私は聞法一筋」という人でも、「開始までに屋台(やたい)会館へ行きます」と言われたら、やっぱり付いて行くじゃないですか。
まあ、そんなもんですね、私共の自性は。
あの手この手のお手回し
大阪のEさんとの打合わせの折に、「いらん心配かもしれませんが、前日の旅館は大丈夫でしょうね」とおっしゃった。
今日も新幹線でご一緒だった方が、「開始時間まで、観光できませんかね」と尋ねられた。
ところが、どうです。
なにも心配することはない。
会場のお世話はもちろんのこと、指定席や前日の旅館の手配から、駅からの送迎、昼食の手配から、それぞれの時間にあわせた観光プラン。
至れり尽くせりで高山の皆さんがお世話下さる。
皆さんは、我が身ひとつだけ持ってくるだけで、「ハイ、こっちですよ」と連れていって下さる。
もちろんそのためには受入側の準備も並々ならない。
旅行社顔負けのIツーリストです。
しかも、トラブルまで発生する。
昨日も広島の義父さんが皆さんと高山駅を下りたものの、迷い子になられた。
京都のわが家の留守電に「迷い子になった。どこへ行ったらええんじゃ」。
高山の皆様に任せきっていますから、サッパリわからず、えらいことです。
でも、チャンと探し出して下さって30分ほどで再会できたとか。
お任せしきって、しかも迷惑のかけどうしなんですね。
聴聞は具体的に
目に見えるだけでも、これだけのお世話があるわけだが、これ誰のためですか? 愛知のIさんは、前々日の木曜日から来てなさる。
ご親類のお葬式ということにして会社を休まれた。
木曜日の夜がお通夜。
金曜日がお葬式…。
ご本人は、やけくそでしょうな。
でもその背後にあるものは何でしょうか? お金儲(もう)けのためでもない。
別に親類でもないのに、損得抜きで大歓迎して下さる。
お世話の方達にしても同じ凡夫の自性をお持ちだろうが、皆さんを喜ばせて、高山は良い所とほめられたいという根性だけでは、ここまでのお世話はできない。
このすべてのご苦労は、仏法の事だからこそではないですか。
そして、そこには大きなお力が働いているじゃないですか。
お世話下さる一人一人に、仏様の願いがかかっていればこそ、こういう形でご縁が結ばれてくるのです。
つまり、阿弥陀様のご苦労はわからんでも、ご先祖様だったら、または両親や食べ物のおかげだったら、目にもの見せて知らせていただける。
それで、いきなり「阿弥陀様の五劫(こう)のご思案は、あなた一人のため」と言われても、雲をつかむようで難しいので、こういう形で具体的に私共に合わせて、観光させ、食わせ、喜ばせて下さる。
そのおかげで、法座にも座り、チラッと仏縁に触れさせてもらって、初めて、仏様のご苦労のほんの一端を知らせてもらえるんじゃないですか。
そこのところのご苦労を、わが身に引き寄せて、具体的に聞かせてもらうことが大事なんですね。
先達のみ跡
「高き峰 先だつ人を 見るからに われも行くべき 道とこそしれ」
という古歌がある。
高い峰-富士山か、この辺では乗鞍岳(のりくらだけ)でしょうか-頂上を目指す人が歩いてる。
私もまた「ああ、この道だな。あの人々に導かれて行くんだ」と、同じ道を登らせてもらう。
自分一人の力でここにきて、聞法しているように自惚(うぬぼ)れています。
大きい顔して「わからん、わからん」と言ってますが、そう言えるのも、「わかる」という人が、私の前を歩み、導いて下さるので、「あんなふうになりたい」と、私も歩ませてもらえるからでしょう。
そうしたお育ての積み重ねは、なにも仏法の事だけではなく、生活の上から始まっている。
種々のおかげがなければ、私共は、「聞法しよう」という気持ちを起こしはしませんよ。
調熟(ちょうじゅく)の光明
仏様のお光にはお働きがある。
いきなり迷いの闇(やみ)を破るといっても、話が大きすぎる。
それでまず、冷たい心を持った私共を、種々のおかげで温めて下さる。
お互いは、自分中心で、おのれに不利なこと、嫌なことは頑固に否定するが、得になることは大好き。
人の世話は嫌いでも、お世話になっても「ありがとう」と口先一言でおしまいです。
そんなものが「おかげ様で、もったいない。こんな浅ましい自分に」と頭が下がる。
このお光の働きを「調熟の光明」と申します。
この照らし育(はぐく)んで下さる、照育のお光のおかげをもって、遠近各地からお出でになった皆さんが、同じ座で聞法させてもらえる。
イヤイヤ来た人や強引に連れて来られた人もありましょう。
また、高山観光が半分目的の人もおられるかもしれないが、心境はどうあれ、ここでご聴聞させてもらうのですから、これもやはり聞法の旅としか言いようがないですね。
香光荘厳(こうこうしょうごん)
この前に大きな額がかかって、「香光荘厳」と書いてある。
これは、西本願寺勧学(かんがく)の故山本仏骨(ぶっこつ)先生の字だそうで、彫られたのはHさんです。
「染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる」
という親鸞聖人のご和讃。
染香人というのは香りが染みついた人。
どんな香りがするのでしょうか?
昔は田舎の便所や野壺(のつぼ)などは臭かった。
それが水洗便所になり、肥料が代わってだんだんと臭(にお)いがなくなってきた。
インドの空港に降りた瞬間、鼻が曲がるかと思う程すごい臭いがしました。
発展途上国と先進国との違いはあの辺にありますね。
形容しがたい臭いです。
ところが、今の若者は、臭いに敏感で、特に体臭を嫌う。
自分の体臭を恐れている。
体が臭うのではないかという悩みを持っている。
腋臭(わきが)のクリニックが流行(はや)り、インチキなのものにだまされたりもする。
それどころか、ペットの犬や猫用の「ウンチが臭わないエサ」が売られている。
糞袋(くそぶくろ)を抱えた内面は問題にしないで外面を飾ろうとする、そんな時代です。
それはともかく、香水というか、芳香の中に物をいれておくと、ほのかないい香りがその物にしみついてくる。
それは、仏様の智慧の香りです。
私共人間の持っている悪臭と違って、仏様の香りが染みついた人は、本当に馨(かぐわ)しい匂いがする。
その人を名付けて、仏様の智慧の光りで飾られた「香光荘厳」だと讃えられる。
本来は「念仏三昧(ざんまい)の人が、その仏を念じる功徳が身に染みつき、必ず見仏出来る」、という意味であったものを、親鸞聖人が、信心獲得の人は、他力のお力によって染香人と讃えられ、香光荘厳の身になるんだ、と示されたものです。
熏習(くんじゅう)ということ
ある時、お釈迦様が阿難(あなん)尊者に、道端に落ちている縄を拾えとおっしゃった。
阿難尊者がその荒縄を拾うと、「そのにおいを嗅(か)いでみなさい」と言われた。
すると、魚のくさい臭いがする。
「魚を結わえてあったのか、生臭(なまぐさ)いです」。
その次に紙が落ちていて、やはり匂(にお)ってみなさった。
「これは馨(かくわ)しい臭いがします。
お香でも包んであったのでしょう」。
紙や縄自体には、それ程強い臭いはないが、お香の力でかぐわしくもなり、また生臭(なまぐさ)くもなる。
熏習という言葉があるが、私共にはどんな匂いが染みついていますか?
ところがです。
自分さえよければよいの糞袋を抱えて、鼻持ちならない匂(にお)いをさせる泥凡夫も、お念仏の仲間に入れてもらえば、他の信心獲得の人の功徳、他力のお力によって、ほのかに香るものがあるじゃないですか。
信心獲得の身になれば、仏様のお力によって、香光荘厳の身になる。
もったいないことですね。
つまり、仏様のお働きによる、種々のお育てがあればこそ、法座にも座らされ、聞法の大切さも身に染みてくる。
ならば、他力の教えとは、年月をかけて、徐々に染みつくように聞かねば、分からないものなんでしょうか。
徐々に有難くなる?
先日、NHK教育テレビに新潟のHさんが出演されて、龍谷大学A教授と対談されました。
A先生が「浄土真宗のおみのりは徐々に有難くなるものでは?」と、二、三度尋ねられた。
すると、Hさんは頑(がん)と否定された。
A先生は「それは、Hさんの特殊体験じゃないですか」ともおっしゃった。
それには「あなたの信仰体験はありがたいものだが、地獄がどうとかいうのは、特別なんです。
普通は、お寺や門徒に生まれさせてもらうなりして、徐々に、ほのかにわからせてもらうのですよ」との意味がこめれているようでした。
案外、これは浄土真宗のお寺さんに多い。
私も修士論文で、伊藤先生とか羽栗(はぐり)行道先生を通して、聞法の要点を具体的に書いたのですが、口述試問の教授が、「増井君なあ、こんなふうにハッキリするとか、求道せえとか書いてあるが、お寺に生まれて、ほのかに温かくなって、喜ばせてもらって行くものと違うんかな」とおっしゃったことが忘れられない。
摂取の光明-照破のお働き
普通は、聞法していく内に、徐々に育(はぐく)まれ、ご恩が身にしみてゆき、「ほのかにありがたくなる」のがご信心だと勘違いするんです。
それは違いますよ。
それはお育てなんです。
ご縁を喜んでいるだけ。
もちろん、大事な事なんですよ。
照育がなければ聞法の場に座れませんからね。
しかし、目前の高山の皆様のご苦労だけを、単に「ああ、けっこうやな、感謝しましょう」で終わっていては、今生事なのです。
一番大切なことは、その背後にある阿弥陀様のご苦労が、私一人のためだと知らされないと意味がないのです。
つまり、そこまでお育てを受けた上は、我が心の闇(自力疑心)を破りたいという照破(しょうは)のお働き、つまり摂取(せっしゅ)の心光に出会ってこそ、仏様の願いを聞く意味がある。
もちろん光明は、自力の闇を破るだけじゃなくて、信心の人を守っていこうというお働き(照護、しょうご)もあるのですが、まず、自力疑心が破られたかどうかが、最肝要です。
信心の点数
そこで、皆さんにお尋ねします。
ご信心に0点から百点まであるとしたら、ご自分は何点ぐらいですか?
これは、一人一人が問わねばならないことです。
華光では、0点か百点しかないと聞いてきました。
が、ある所で「50点ぐらいです」と言う人があって、びっくりしてしまいました。
Hさんは、信一念のところをハッキリおっしゃって下さったが、お育てという観点からみれば、何もわからない者が育っていくわけです。
最初から悪人だと思っている人は誰もいない。
それが「本当に自分勝手な奴だ」ともわかり、仏様を否定していたのが、「ああ、これを他力のお働きといわずになんと言おう」という事になる。
そういう意味で、「初参加の人は、そりゃ0点。増井先生だったら百点だろう。
わたしは、仏様の有難いのもわかるし、浅ましいのもわかるから、90点ぐらいやな。あと一息」。
こんな人おりませんか?
そこまで厚かましくないけど、「あの人が40点なら、私は60点かな」とかね。
教習所での習得
家内が、自動車教習所に通っていた。
4月末から通いだして一昨日免許をとり、昨日が初乗車でした。
最初は、気楽に考えていたようだが、これが中々難事業。
もちろん教習所では、最初から路上を走らしてはもらえない。
最初は、コースの外周を20キロ足らずでノロノロ走って、それでもカーブがうまく回れぬとか、脱輪したとかね。
それが、徐々に細い道やバックを教えてもらう。
ある程度運転出来たら、路上を走り、さらに高速道路ということになる。
そして、この程度運転できたら-と免許皆伝となるのでしょう。
でも、免許皆伝で一人前かなと思って、乗せてもらったら、こっちが命懸け。
大きい駐車場で、車3台ぐらい停められるところでの車庫入れだが、何時までもハンドルをきらない。
どこへ行くんかと思ってたら、やっとハンドルをきりだした。
そこからだと壁にぶつかる。
「あかん!」と止めました。
「どうしてハンドル切らんのか?」と問うと、「だって、"はい、ハンドルきって"と言うてくれんから…」。
結局、何度やってもダメだったので、運転を代わった。
免許皆伝しても、運転出来るとは限らない。
でも、半年もしたらうまくなってます。
そして、初心者を見たら「ああ」と思いますわ。
自分もそうだったのに、最初からうまかったつもりにすぐなる。
自力他力の水際
しかし仏法は教習所じゃない。
他力の教えでは、徐々に分かっていこうという聞き方はダメです。
でも、「そう言っても、ある程度聞いて、理解せねばわからないんじゃないか」と思っている人はいませんか。
「あの方は20年も聞いている。私らこの辺で結構…」。
確かにお育てという事もあるが、いくら心が育ち、「仏様が有難い」「わしは悪人だ」と分かり、99.9まで来たとしても、自分で造ったご信心だったら0点なんです。
50点も80点もない。
他力廻向の浄土真宗のご信心は、0点か百点しかない。
しかもそこには、0点のままが百点満点だったという不思議な世界がある。
ところが、今日では、この水際を厳しく言わない。
それで、お育てを、ご信心と勘違いしている人が多い。
恐ろしいことです。
後生は大丈夫か
6月に仏青で『仏敵(ぶってき)』の跡を旅します。
伊藤康善先生のみ跡を慕うわけですが、伊藤先生の善知識である「およし」婆(ばあ)さんが、『仏敵』でこう言われている。
「臨終を今に取り詰めて、さて自分の出て行く後生の一大事はどうかと思案してみると、行く先が真っ暗でさっぱりわからん。
仏様と私の心の間に薄紙一重の隙間(すきま)ができて、9分9厘までは助かるようで、残り1厘がモヤモヤと怪しかった」と。
日頃は「お任せした」と喜び、「阿弥陀様はお慈悲なお方だ。
親鸞様初め、あんなに高き峰に到達した先達もいる。
私もキット大丈夫。
間違いないだろう」と思っていても、「今夜出ていく後生は?」と、真剣に問いつめた時に、モヤモヤしていることは、ありませんか?
さらに伊藤先生が、「他力と自力の水際は、実際に心のなかで、ハッキリするんですか?」と。
すると、「仏智の不思議にブチ当たれば、火の様にハッキリわかります」と、乳癌(にゅうがん)でザクロのようにウミが出て「痛い痛い」と瀕死(ひんし)のお婆さんが、力強く断言される。
「本当に真実の第十八願にブチ当たったら、そりゃあ全く空恐ろしかったぜ」と。
「聞かせてもらったのだろうか、そんな気もしてほのかに温かい。お任せしておけば、気軽な気がする。」
そんな信心ではなくて、「火の様にハッキリする」と断言されている。
偉い先生に聞いても、春霞(はるがすみ)がかかったようにボヤッーとしてわからなかった関門が、ご本願にブチ当たった無学の老婆の口を通して明言されたわけです。
わが胸が承知せず
東京法座で、あるお同行さんが「仏様の有難いこともよくわかるし、自分の浅ましい事もわかる。
でもこの胸ひとつが承知しないのです」と告白された。
聞法のおかげ、照育のお働きで、徐々にわからん心を温めてもらって、「浅ましい奴を、有難いなあ」というところまで育てられた。
でも、一人になってこの胸を叩(たた)いてみたら、不安がある。
Bさんは、喜び手のお同行さんだと思っていたが、逆に、その正直さに心を打たれる思いを抱きながら聞いていた。
仏様は有難いとはわかっても、さて自分一人で出ていくとなると、不信がおこる-私共が、こうしてお聞かせにあずかるのは、ここ一つをお互いが聞き違えんようにということでしょう。
その為にお育ても、ご苦労もあるわけです。
最後のドン詰まりの所は、ホノボノと喜んで有難がっていても、本当にご本願にブチ当たらんことには、ダメなんです。
誰に教えてもらうより、火を見るようにハッキリするのが、浄土真宗の他力廻向のご信心の仕組みです。
自力疑心の正体
そこでBさんに、「あなた一人の為の仏様のご苦労と思えますか?」と尋ねると、
「皆を救う仏様だと思うが、私一人のご苦労とは喜べない」と言われる。
では何故、「仏様は有難い」と言いながら、「はい」と頷(うなず)けないのか。
ここに恐ろしい心がある。
仏様の上をゆく心、仏様の智慧にケチをつける、仏智を疑う心がある。
それでBさんに「他力のお念仏一つで、あなたは満足か、不満足か?」と尋ねた。
すると、「胸が承知しない」と言われる。
「満足か、不満足か。イエスか、ノーか」を尋ねているのに、
「仏様の有難いのは分かる。でも胸が承知しない」の一点張りで、自分の心ばかり詮索(さんせく)される。
だから、話は全く聞かずに、自分の胸を承知させように腐心(ふしん)されている。
つまり、日頃の喜びも、一人になって「後生は?」と問えば、
「本当に大丈夫か。こんな心境でいいのか」と不信が起こる。
その心を裏返せば、「こんな安心では頼りない。もっとシッカリしたものをもらわねば」という心。
すなわち、仏様の南無阿弥陀仏のご苦労では、十八願のお念仏では満足できんぞ、という恐ろしい心が、腹底にあるんじゃないですか。
その自力疑心を照破してもらう、摂取の心光に出会ってこそ、0点が即百点満点になるのです。
先手のご本願
結局、Bさんの反応は悪かったが、一先ず、「不満足です」と言われて、お念仏と共にその法座は終わった。
後日、聞いたところでは、Bさんは、法座の会計係で、会費を徴収したが、どう計算しても一人分足りない。
自分が引き受けた以上は責任があるので、自腹をきられた。
そして帰宅して家計簿をつけてみたら、「出してないのは私だった」と、がく然とされたそうです。
自分のことは棚に上げて、他人ばかりを疑っていた。
第一、今度こそはと臨んだ法座で、しかも先生やお同行方が一生懸命お話し下さったのに、ハッキリ聞き開く事もできず、このざま。
本当に我ながら、ホトホト愛想が尽きる。
情けない自分だと、台所に立ち尽くして、涙が溢(あふ)れてきたそうです。
その時、「ああ! こんな私に愛想をつかさず、寄り添って下さるお方がおられた!」と、気付かれたとおっしゃています。
すると、「みんなを救う仏様」から、「私一人のためのご苦労」だったと、味わえてきたそうです。
自分でも愛想を尽かし、信用できない者を、先手をかけて信じ切り、ずっと付き切りのお方がおられたのです。
大きな願いを聞いて、実際にブチあたらせてもらわねば、ここのところはわからない。
確かに、おぼえたり、頭で納得する事はできます。
でもそれでは、後生と出ていく時には、役には立たない。
伊藤先生は「一切を放下(ほうげ)して、自己を反省しろ」とおっしゃった。
納得したのも、有難いのも、念仏が出てきたのも、置いていかねばならない。
裸になって聴聞せねば、聞いたつもり、わかったつもりで話しあってもダメなんです。
教習所なら、先生が横でブレーキを踏んでくれますがね。
後生は一人一人の問題です。
後生の一大事を油断するな
この地域は、蓮如上人時代の妙好人「赤尾の道宗(あかおのどうしゅう)さん」のご近所。
「後生の一大事、命のあらんかぎり、油断あるまじき事」。
聞いた、分かった、知った、本当に大丈夫か。
命のあるかぎり、そう厳しく自分自身に尋ねて行かれた。
そして仏様のご苦労を体をかけて味わっていかれた先達です。
48本の薪(たきぎ)の上に寝て、仏様のご苦労を忘れる我が身を責められたといわれるが、私共にはそんな真似はできない。
が、しかし、私が聞いたというところを、本当に大丈夫か。
ご縁を、おかげを、今生事で、喜んでいるだけではないかと、我が心境を叩(たた)くことはできるじゃないですか。
確かに、よく似ています。
99.9点と100点では。
でも本当に0点が満点になる身になったかどうか。
これには、聞法歴の長短は関係ない。
私はこうして法衣を着ているが、僧侶であろうと俗人だろうと、一人の凡夫に立ち返り、「我が出ていく後生は」となれば、全く関係はない。
もしここ一つを聞き違えて「有難い」を握ったまま落ちていかねばならんかったら、それこそ一大事なんです。
一切を放下せよ
すべてはお育てのおかげだが、そのお育てを喜ぶのではなく、もう一歩出て聞法してもらいたい。
逆に「本当は来たくなかった」という方も、それも立派なお育て、お手回しのおかげで、ここに座った以上、もうグズグズ言わないで、さっさと百点満点の身にならしてもらいましょうや。
さらに、自分は本当に満足の身だ、と断言できる人も、一切を放下して、静かに裸の自己を見つめ直させられる、そんな場所じゃないですか。
中々、一人ではそんな事はできませんが、こうして友同行のお念仏の中でこそ、腹を割って聞法させてもらえる。
本当に大丈夫か。
口に出る南無阿弥陀仏一つで大満足か。
ここのところをお互いに問わせてもらう。
せっかく高山まで来たんですからね。
高山のお念仏、今燃え盛っております。
その燃える火の粉を浴びて、共に燃えさせてもらいましょう。
有難いものを握らないで、地獄行きの身になってもらいたいと思うわけです。
(H8・5・25 高山壮年の集いの法話テープより)
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