凡夫が仏になる
著 者 | 増井 信 師 |
掲載号 | 華光誌 59-2号 平成12年4月発行 |
凡夫が仏になる
「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれる真宗の篤信家のお同行の中に、四国・讃岐(さぬき)の庄松(しょうま)同行という方がおられる。
この方は、世渡りでは、愚鈍の人だったが、こと信心に関しては、しっかりと筋が通っていた。
ある時、庄松同行のところに「困ったことになった」といいながら、友達がやって来た。
「最近、この田舎にも耶蘇(やそ)教(キリスト教)が入り込んできた。
さて、さて困ったことになりそうだ」と。
すると、庄松同行が、「たとえ耶蘇教が入って来ても、凡夫が仏に成るより、上のことは来んぞ」とおっしゃったんだそうです。
さて、これとよく似たことを仰っている妙好人がもう一人いらっしゃる。
山陰・因幡(いなば)の源左(げんざ)同行は、「珍しいことだ、珍しいことだ、凡夫が仏に成るというこった。
こんな珍しいことが外(ほか)にあるものか。
あゝ有難や、有難や。
」とおっしゃってるんですね。
つまり、「凡夫が仏に成る」ことを、庄松同行は、この上のない最高だと表現し、一方の源左同行は、こんな珍しい有難いことはないと言われた。
多少の言葉のニュアンスは違いますが、全く同じところを喜んでおられますね。
宗教は心の問題か?
さて昨今は、宗教は心の問題だと思っている方が大半です。
だから、心の安定や修養を目的に、感謝や喜びの生活が信仰生活だと考えられている。
多分、浄土真宗の門徒さんでもそうでしょう。
その意味で、妙好人が尊重される。
特に源左さんは、人間的にも立派な善行者で、役所から表彰される生活模範者ですから、そういう喜びや感謝の日暮らしに憧(あこが)れ、心の平安を求めるわけですね。
でも、今のお二人のお言葉から、浄土真宗の聞法の焦点がどこにあるのかが、一目瞭然(りょうぜん)ではありませんか。
「凡夫が仏に成る」。
この一点に、ピタッと焦点を当てて、ご法を喜んでおられる。
私共が普段、願っているような人間的な善行や心の平安とは、明らかに違っています。
実は、この一点が、仏教の本筋なのです。
何のためにお釈迦様がご出世になられたのか。
その後、沢山のお寺が出来、ご聴聞の機会があるのか?ズバリ言うと、仏に成るためです。
仏教は、仏になる教え、成仏をめざしているわけです。
すごく分かりやすい。
ところが、仏教国である日本で、この点が正しく理解されていない。
成仏や往生の言葉ほど、誤解されていることはありません。
死者を「仏」という誤り
まず、「仏に成る」のは死んだ後で、「死んだ人が仏」という誤りです。
だから、亡くなったご先祖様が仏だと思っている。
または、「死者」や「霊」以外に、「死骸(しがい)」をも仏と名付けると、国語辞典に載っている。
刑事ドラマで、「おい、仏さんの身元は割れたか」と言うてますね。
仏の身元-この場合は仏像でも、ご先祖でもない。
ましてや「仏の身元は阿弥陀仏」のわけがない。
まぎれもなく「死骸」を指している。
それを聞いて、9割9分の人はおかしいとは思わないでしょう。
つまりは、死者やその霊。
そして先祖から死骸まで含めて、「仏」と呼ぶのが、今日の日本の間違った常識です。
そのおかげで、お寺さんも成り立っている。
死んだ人が仏でなくなったら、一番困るのはお坊さんかもしれない。
死者や先祖を供養することが仏教の役割だと、ご門徒さんの大多数も期待しているのです。
目覚めた人が「仏」
つまり、仏に成る、成仏とは、死ぬことと同義語で理解されている。
だから、自分にはまだ関係ないとか、自分にふりかかってきたら縁起でもない、気色の悪いということになる。
ところが仏教の根本からすると、大間違いです。
では、「仏に成る」とはどういうことか。
死者でも、ご先祖でも、死骸でもないなら、仏とは何なんでしょうか?
親鸞様が七高僧のお一人に数えられた、中国の善導様が、仏というのはインドの言葉で、中国語に訳したら「覚」になるとおっしゃっている。
もともとブッドゥ(√budn)という言葉から、二つの言葉ができた。
一つが、budhi「菩提(ぼだい)」。
もう一つが、buddha「仏陀(ぶっだ)」です。
ボダイという音を中国人が聞いたまま、漢字に当てはめたのが、「菩提」です。
ブッダッァの方は「仏陀」という文字を当てはめた。
日本人は外来語をカタカナにしますが、中国では漢字に全部あてはめている。
でも、それだけでは意味がわからない。
それで、菩提の意味を訳すと、「覚、目覚め、悟り」になります。
仏陀の方は、「目覚めた人、覚者、悟った人」ということになる。
その目覚めた内容が菩提というわけです。
普通、仏陀は、お釈迦様をさしますが、お釈迦様だけでなく目が覚めた方、全てが仏陀というわけです。
「仏」(ぶつ)から「ほとけ」へ
ところが、この仏陀が日本に入ってくると、「仏」(ブツ)を、「ほとけ」とも読むようになった。
同時に、本来の意味が薄れ、死んだ人が仏となり、先祖崇拝や葬式仏教が繁昌しているわけです。
では、なぜ「仏」=「ほとけ」になったのか?実は、諸説があってハッキリしていない。
例えば、「ほっとけ」から「ほとけ」になったという説がある。
昔、日本の人達を憐れんで、仏様が日本の難波津(なにわのつ)にあらわれて、その仏像をおまつりすることになった。
それが善光寺の如来様です。
たまたまその頃、国中に熱病が大流行したが、それは外国の神である仏様をおまつりしたので、日本の神さんが怒っておられるんだという、仏教排斥のグループが、物部守屋(もののべのもりや)の一派であります。
それで、外国の神様、仏像を捨ててしまおうと、堀江という所に放ってしまった。
その「ほっておく」の「ほっとけ、ほっとけ」から転じて「ほとけ」になったという説です。
「ほとけ」の語源は熱気(ほとおりけ)?
実は、親鸞聖人も五首の『善光寺如来和讃』の中で、「ほとけ」と呼ぶいわれに触れておられる。
親鸞聖人の説も、熱病が流行して、仏像を破棄するところまでは同じですが、由来が少しちがう。
つまり、物部守屋が仏像に触れたら、仏像が暖かかったというんですね。
「やはり、このせいで日本中に熱病が流行したんだ」と仏像を壊そうとした。
熱気と書いて「ほとおりけ」と当時は読んだそうですが、その「ほとおりけ」では言いづらいので、そのうちに「ほとおりけ」が転じて「ほとけ」となったというんです。
でも、仏教排斥の物部守屋を語源に、後の人が間違って「ほとけ」を使うようになったんだと、親鸞様はおっしゃってます。
結局、守屋は蘇我氏に滅ぼされてしまうことは、歴史で習われたでしょう。
むろん、どこまでが事実かわからないし、もっと昔から「ほとけ」という言葉が使われていたという学者もあって、今だ定説はありません。
ただ、日本では、ブッダ・覚者・目覚めた者を指す「仏」を「ほとけ」と呼び、死んだら、殴っても悪口言われても文句一つ言わんので、死者は「仏様のようだ」と思い、死骸やその霊魂・先祖なども、すべて「ほとけ」となった。
そして、江戸時代には、そのおまつりこそが、お坊さんの仕事と完全に固定してしまった。
もともとの意味から見ると悲しいことです。
しかも、いくら異を唱えても、ほとんどの人が、死んでから先のことで縁起が悪いと思うか、もしくは死んだら誰でも仏に成るんだから、それより今の自分の悩みの解決こそが一番というのが、大多数です。
自覚・覚他・覚行窮満
さて、善導様は「仏」とは「覚」の意味で、しかもこれには三つの意味があると説いて下さっている。
一つは「自覚」ということです。
これは独立して日本語で通用します。
「自覚的な人」とは、自分の判断力を持ち、独り立ちしているという、いい意味ですね。
でも、ここでは、自分自身の目が覚めたことが自覚。
何の為に私は命をいただき、何が真実なのかに目が覚めた。
そういう智慧がひらく。
仏教では、自利といいますが、自らの悟りの面です。
ところが、仏様の覚が一般の自覚と異なる点は、さらに「覚他」として、他の人も目覚めさせたいと働くわけです。
目覚めた目でこの世を眺めると、「哀れなるかな!一切の衆生は、まことでない今生事に執着し、自分の損得一杯の煩悩まみれの生活を送っている」。
自覚によって、そんな所に真実はないことに目覚め、それを自分一人にとどめずに他の人にも伝えていきたい。
他人の目も覚まさせたいと願われるわけですね。
迷える者を見て、ジッとしておれん働き、利他の面が、二番目の「覚他」です。
自利利他が円満
そして三番目を「覚行(かくぎょう)窮満(ぐうまん)」と申します。
難しい言葉です。
まず、「自覚」とは自分が目覚めるという自利の面。
自分自身が明るくなる、つまり智慧の働きですね。
しかもその智慧はそこで留まらず、他の人も救いたいという「覚他」の働き、つまり利他の面です。
これは、大慈悲心の働きですね。
自分自身がハッキリわかるという智慧と、他者への慈しみ。
この智慧と慈悲の修行が窮まった。
ちょっと頑張り、修行した程度ではない。
その修行を極め尽くして成し遂げ、時間的にもやりおおせて、満ち満ちたということが「覚行窮満」です。
そこいらの聖者や菩薩方とは違い、完全に自利利他が円満してる。
それだけの事を成し遂げた。
それが「自覚・覚他・覚行窮満」です。
目覚めていないのに自分に自惚(うぬぼ)れ、自己を正しいと思っているのが、私共、凡夫の姿です。
それに対して、本当に目が覚めている、「自覚」の聖者の世界があるんです。
その中でも、声聞や縁覚は、まず自分が覚ることを目的になさっておるのに対して、利他の行、他の人も目覚めさせるだけの目覚めの内容を備えているのが、菩薩や仏です。
しかも修行途中の菩薩様と違って、すでに完全に成し遂げられたのが、「仏」-目覚めた者ということです。
自業自得の真理
随分、世間での「仏」とは違いますね。
聞けば聞く程、私共の凡夫には無縁の世界です。
でも、真宗者ならば、「凡夫が仏に成る」ということを、何の疑問もなく聞いてますが、よくよく考えると、これもおかしな話です。
本来、三阿僧祇(さんあそうぎ)百大劫(ひゃくだいこう)という、計りしれない時間をかけて、修行が完成した菩薩が仏になるのが、本筋ですね。
その逆に、凡夫はどうなるか?お釈迦様の『法句経』に、「鉄より生じた錆(さび)は、鉄より生じて鉄を腐食させる。
人の悪しき業は、おのれより生じておのれを悪しき所へと導く」とある。
鉄を錆びさせるのは、他でもない鉄自身の錆。
私の行き先は、他人が決めるのではない。
自分自身の業で、自分の悪世が決まるんだと。
これが仏教の三世因果の道理。
この道理に照らされると、やりたい放題、言いたい放題、三毒の煩悩一杯の悪業の泥凡夫は、仏に成るどころか、自分の悪業で、自分自身の地獄に落ちていかねばならん。
これが因果の道理の厳然たる事実です。
信心獲得せねば無間地獄
蓮如上人は、「無善造悪のわれらがような浅ましき凡夫は…」と言われる。
私共は、善は無く、悪ばかり作っている。
そんな考えは、現代人には完全に欠落してますね。
自己の善人性は疑わず、凶悪犯や汚職政治家なんかが悪人なんでしょう。
ところが「われらがような」ですから、どこか別に悪人がいるんじゃない。
私共一人一人が、無善造悪の浅ましき凡夫だというんです。
そして、「この信心を獲得せずば極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」と、もし仏法を聞きひらくことがなかったなら、地獄真っ逆様なんだとおっしゃる。
でも、それは誰かが造った地獄じゃない。
地獄は有るとか、無いとかではない。
人ごとで、他人が造ったのなら、有る無しも問題になります。
しかし、鉄より生じた錆が鉄を腐らすように、私の造った悪しき業こそが、自分を悪しき所へと導いてゆくんだと、仏様の自覚の目には、ハッキリと写っているのです。
これが人間同士なら、立派な人も、頭のよし悪しもあるでしょう。
そして自分と周りとを比較して、一喜一憂しているのが、私共の姿です。
しかし、本当に問題にするのは、目が覚めた仏様からご覧になった、私の迷いの姿なんです。
毎日毎日、自分は何を造り、どこへ行こうというのか?世渡りでも、悪しき友に近づき、悪事を続ければ、悪しき結果が起こってきますよ。
遠い先に後生を置かなくても、因果の道理が生きているのがわかりますね。
私自身の行いで、私の行き先が決まる、誰の責任でもないんだというのが、仏様が目覚められた道理、真理なんです。
すると、私の未来は明るいどころか、後生は真っ暗の生活を送っているじゃないですか。
「この暗い世界を晴らし、明るい世界に転じよ」と教えられるのが、仏様の教えです。
転迷開悟の教え
それを一口でいうと転迷開悟ということです。
ご聴聞の上でも、有難いきれいごとではなくて、自分自身の位置づけを聞かせてもらえるようになれば、かなり進んでくる。
「私は迷っているんだ」という点に、心が掛かり、聞法できるようになったら、スススッーと進むと私は思います。
迷いを転じて悟る、目覚めるということは、もう二度と迷わぬ身になるということです。
眠りから目が覚めてみると、自分がこれまで正しいと執着していたことが、実は虚仮(こけ)の世界で、ウソのように思えていた仏法が、本物であったとわかってくる。
本当の心の底から晴れ晴れと喜ぶ世界があるわけですね。
転迷開悟の教えこそが、仏教です。
だから、私共の自性のままだったら、地獄に真っ逆様に落ちていかねばならないのが、厳然たる事実です。
逆に、菩薩が仏になるのは、それだけの修行を成就し、功徳や善根を積み、智慧を開いた結果なのです。
ところが庄松さんが、これより上の教えがないと喜ばれたのは、凡夫が凡夫のままで仏になる、最高の目覚めをさせてもらう教え。
実はそれが浄土真宗だと。
だから、こんな珍しい、有難いことはないと、源左同行も喜ばずにはおれんかったんです。
「仏に成る教え」が仏教だとするなら、「凡夫が仏に成る教え」が、真宗ではないでしょうか。
ただ凡夫成仏を聞く
『蓮如上人御一代記聞書』(一八五条)に、「信心安心(あんじん)などといへば、別のように思ふなり。
ただ凡夫の仏になることを教ふべし。
後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。
なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。
当流には、これより他の法門はなきなりと仰せられ候ふ。
」と、凡夫が仏になることを教えていただく。
凡夫が仏になるその心を聞かせていただく。
凡夫というのはどこにおるのか?ほかでもない、毎日の日暮らしの中で鉄が錆を出すように罪を造っている私です。
毎日、心の中で他人を憎み、妬(ねた)み、そねむ。
欲しい心一杯、愚痴一杯の日暮らし。
もしくは、あの人よりましと自惚(うぬぼ)れ、一家の大黒柱で私がいてこそ、この家はあると大きな顔で座っておる。
まさに、わが身を惜しみ、家族を愛(いとお)しく思い、お金を惜しむ。
そんな泥凡夫の私自身が、あろうことか最高の仏になる。
生きてる間に、このおいわれを聞かせてもらった端的に、本当の目覚め、悟りを得させていただく身の約束ができる。
それが浄土真宗のおみのりなんです。
無上覚をさとるなり
「弥陀の本願信ずべし本願信ずる人はみな摂取不捨の利益にて無上覚をばさとるなり」親鸞聖人が夢で感得されたご和讃です。
こんな夢、一度見てみたいもんですね。
ここでの「無上覚」、先ほどの覚、菩提です。
すなわち無上、最高のお悟りを得ることができる。
どうしてか?
弥陀の本願を信じる人を、弥陀は摂取して捨てない。
ここに凡夫が仏になる教えの要(かなめ)があるんです。
凡夫が凡夫のまま阿弥陀様に摂取不捨され、光明の中に収めとられて、仏になることができるわけです。
摂取不捨のこころ
では「摂取不捨」とは何か。
今日、ご一緒に『阿弥陀経』のご和讃を勤めました。
その中の一首です。
「十方微塵(みじん)世界の念仏の衆生をみそなわし摂取して捨てざれば阿弥陀となづけたてまつる」私のちっぽけな頭で考えたら、せいぜいお救いにあうのは、ここにいる人ぐらいでしょう。
それが日本人はおろか、地球人程度でもない。
阿弥陀様のお力、お光は、あまねく全宇宙に広がっている。
十方の微塵世界のお念仏を喜んで申す衆生を、よく見て、その人の心を照らし、摂取して捨てない。
親鸞聖人のご草稿和讃の左訓には、「摂(おさ)めとる。
ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂(せつ)はものの逃ぐるを追はへ取るなり。
摂はおさめとる、取は迎えとる」と、ご説明になっている。
逃げている者は、私共凡夫です。
凡夫は、真実が大々嫌い。
本当の事を聞くのが大嫌いです。
自分の造った業に引っぱられて、お互いが日常生活を勤めている。
だから、日頃の仕事も忙しいのに、連休ぐらい家でのんびりして、遊びにも行きたいのが、自性でしょう。
そんな者がですよ、真実の仏様から、自覚・覚他・覚行窮満の最高の仏にしてやりたいと、目をつけられたんです。
それで、満員の新幹線に揺られ、わざわざ京都まで来て、不思議にもここに座って、嫌な真実を聞かされている。
そこに、お前一人を救いたいという真実がほとばしり、溢れ出てくださる仏様のお働きがあるじゃないですか。
逃げる者を逃がさんぞと追いかけて下さって捕らえる。
そして、こんな私を迎えとってくださる。
嫌われ者も、鼻つまみ者も、行く所無い者も、如来様の世界は、ようこそと迎えとり収め取ってくださる。
しかも収め取ったものを、いつまでも捕らえて離さんぞという心こそが、摂取不捨の心です。
光といのち、きもわなし
阿弥陀仏とは、無量寿・無量光のお方です。
アミダはインドの言葉で、その意味は、無量寿と無量光ということになる。
「光といのち、きわもなし」と『正信偈』の意訳にございます。
無量の光とは、十方のあらゆる生きとし生きる物を照らす。
このスタンドならこの机しか照らさない。
でも、阿弥陀様のお光は、ここを照らすが、あそこは照らさんという、範囲が限定されてはいない。
智慧のお光ですからね。
と同時に命もきわもないのが、阿弥陀様です。
でも、無量の命だから、どこか遠くで、ずーっと生きておられるのかというと、そうではない。
私のために、私の血となり肉となって下さっている。
なんとか私に真実を届けんがために、わが身を投げ出して下さっておるのです。
もし寿命や光明に限りがあったら、お救いが限定されます。
この時代の、あの国の人だけというような、ちっぽけなお救いではない。
「十方微塵世界」とおっしゃるんですよ。
時間的にも空間的にも、智慧と慈悲が限りなく満ち満ちてくださっている。
しかも、この無量の命、無量の光によって、私をおさめ取ってやろう。
逃げているものを追いかけて、お前もまた、光明無量、寿命無量の仏に、必ず、必ずさせてみせるぞというのが、阿弥陀様の深い深いお心です。
凡夫が凡夫のままなら、自分の悪業で、地獄真っ逆様です。
それが哀れやなと、ジッとしておれん真実が動き、そして私共に働きかけて下さっておる。
そのお働きが、今、まさに、私を抱きとって「逃がさんぞ」と言うて下さっておる、そのお心でございます。
弥陀の本願信ずべし
これを、「結構でした」程度で終わっていてはダメです。
この真実の仏様に、私が会わせてもらう、信心一つが肝要なんです。
獲信の身となれば、摂取不捨のお心は誰の為でもない。
逃げているのは誰でもない、この私だった。
逃げて逃げて逃げまくっていた者を、ずっと追いかけ追いかけ追いかけて、迎えとって下さる。
鼻つまみ者を、ようこそと温かく受け入れて下さり、抱きとって光の中におさめて下さる。
この摂取不捨のお働きによって、まさに凡夫が凡夫のまま最高のおさとり、無上の仏にさせていただけるのです。
だからこそ、親鸞様は、「弥陀の本願信ずべし」と勧めずにおられなかったのです。
凡夫のはからいを止めよ
この世には様々な教えがあり、目前の悩みや苦しみの解決に魅力的な教えもあるでしょう。
しかし、いくら火の粉を払っても、火の元を断たねば、次々と火の粉は降りかかりますよ。
私共は、少々の火の粉など苦にならんという教えを聞かせてもらっている。
世渡りは火の粉の連続です。
でも、このご法に出会うと、その一つ一つが、仏様のご苦労を喜ばせてもらえる、有難い材料に変わっていく。
しかも、火の粉を喜ぶ身にさせてもらっても、それは付録にすぎない。
「凡夫が仏になる」とは、昿劫(こうごう)以来の迷いの元を絶つことです。
庄松さんや源左さんが、ここに焦点をあて、これより上の教えはない、こんな珍しいものはないと喜ばれたお心が、私も聞かせてもらえば、ピタッと分からせてもらえる。
この一点で頷(うなず)かせてもらわねば、きれいごとの喜びでは役立ちません。
浄土真宗の肝要は、凡夫のはからいをやめて、ただ摂取不捨の大きなご利益を仰げと、覚如上人のお言葉がございます。
今日こうして私共が、このご縁に会うておることは、まさにここひとつを私がくぐらせてもらっておるか、どうかを聞き合い、味わわさせていただくことではないかと思うわけです。
(11年5月3日永代経法要法話テープより)
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