善悪について
| 著 者 | 増井 悟朗 師 |
| 掲載号 | 華光誌 53-4号 平成6年10月発行 |
(座談)道徳と宗教の善悪
増井悟朗先生 今夜の仏青は、子供大会に関連して「善悪について」としました。
普通、善悪というと、中国でおこった性善説や性悪説を想像されるのではないでしょうか。
また道徳的な善悪と宗教的な善悪の相違などもあります。
結論から言うと、浄土真宗の善悪は、性善説や性悪説ではありません。
また道徳や一般的な宗教の善悪とも違うのです。
ただ、初めて浄土真宗の話を聞くという方もおられるので、皆さんのお考えを聞きながら、話を進めてまいります。
まず、法律や道徳、そして宗教でいう善悪がどう違うのか、考えてください。
Yさん 道徳の善悪は、人にやさしくとか、仲良くするとか、人のためにつくすことが善いことだと思うのですが、宗教の善悪では、そんな善いこともすべて自分のためにしているのだから、悪になるのではないかと思います。
それと、たとえうわべの心で人に親切にしても、本心が、見返りを期待していたとしたなら、死後、それが罪となって、次の世界へつながるのが仏教だと思うのです。
増井先生 道徳は、対人的に、相手の喜ぶことをするのが善で、その逆が悪。
宗教的には、「自分のため」を出発点にしていたら善とは言えないし、生きている時だけではなくて、死後にもその問題をひきずっていくのが仏教だと…。
Tくん 私は、善悪の区別とは異なると思うのですが、今日の一般的な社会風潮からみた善悪というのは、多数のための利益になるのが善、逆に多数の不利益になるのが悪、という見方をしているのではないでしょうか。
本来の善悪からみれば、多少悪いことでも、利益になれば、善と見なされているように思います。
Mさん 私の考えている道徳上の善悪は、例えば、親孝行のような立派な生き方や行動で判断されるものです。
宗教的な善悪は、心の中で「欲しいとか、憎いとか」を思ったら、行動に表れなくても罪になります。
Tさん 道徳的とか、宗教的とか、上についちゃうと、ゴチャゴチャ考えて難しくなるのですが、宗教の善悪といえば、仏様を疑うことが悪ですかね。
増井先生 仏様となると、宗教的というより仏教的ですね。
まあ、宗教的にいえば、神とか仏とかを信頼、信仰することが善で、疑うことが悪ということですね。
K先生 善悪の中身ではなくて、道徳的善悪というのは、時代や社会によって変わっていきます。
身近な話では、戦前の道徳と今の道徳と全く違うし、お年寄りとしゃべっていてもそれは感じます。
しかし、宗教的善悪は、どんな社会であっても、善悪の基準が末通っていくことではないでしょうか。
Tさん でも、人によって、宗教的善悪は違うのではないでしょうか。
K先生 うん、だから、その特定の宗教において、一つの宗教においてはということです。
宗教どうしを比べたら、異なるかも知れませんけど…。
増井信先生 僕は、今の社会では、法律、道徳、宗教に加えて、倫理ということが、やかましい時代だと思います。
政治倫理とか、生命倫理とか環境倫理とか。
脳死や臓器移植の問題でも、科学や医療といのちの問題を法律で決める、いのちを規定せんといかん時代になってきました。
環境の問題でも、将来、人の欲望をどこで規定するのかを法律で定める時代がくるかも知れません。
ますます、法律や道徳や宗教の区別ではすまない時代になってきたのではないでしょうか。
何を捨てて何を選んでいくのか、その倫理観が注目されているのではないかと思うのです。
三つのボーダーラインがなくなってきて、単純な枠では、善悪も考えられない時代になってきたと。
増井先生 倫理という言葉は、今までは道徳と一つにして考えてきましたね。
今の時代は、法律、道徳、宗教という三つでは、覆い尽くせないのではないかということですね。
Kさん 私は、パッーと仏教的な考え方しかできなくなっていて、自分の中では、善と悪の間に線はすごく引き難いものだと思うけど、今では、善と言われたら仏様というのが、パッーと出てきて、悪とは自分、というイメージしか出てきません。
(座談)先祖供養と善悪
Iくん 僕なんかは、小さい時から長い間、先祖供養や善行が大事という宗教に入っていたので、ご先祖様を大事にすることが善で、それが、自分や家族にとっても幸せなことです。
逆に、ちゃんと拝まんかったら、バチが当たるのじゃないか。
それが、どうも心のどこかにしみついてしまって消えないです。
ふとした時に出てきて、これは親鸞様と違うと思いながらも、どうしてもね。
増井先生 善悪と、幸不幸とが結びついていきます。
悪には罰、善には幸せということです。
先祖供養や現世利益的信仰を、小さな時から家庭教育や宗教教育された人は、そういう考え方で人格形成されてしまいます。
私は、その恐ろしさを、非常に多く知っているので、正しい宗教教育の必要性を痛感しています。
一般的にいって、日本人の場合は、先祖供養が当り前ですから、ちょっと言われると無条件に入っていきます。
日本人の根の深い感情にかかわっているのでしょうね。
信先生 一般の宗教では、先祖供養信仰や善行を積むことこそが善、それが宗教そのものですからね。
Iくん 自分が実行できているかというと、出来ていません。
だから余計に、責められてきます。
父親からも、「お前は、先祖を大事にせえへん」といわれたら、口では色々言いわけするけれど、どこかで「悪いな」というのがひっかかってきます。
増井先生 じゃ、家族に言われてひっかかることと、華光で聞く親鸞様の教えとの違いは、どう理解していますか?
Iくん 僕は、最初に心を引かれたのは、『歎異抄』の「父母の孝養のために一遍も念仏しない」でした。
先祖供養を否定しています。
どういう意味なのかなというのが、真宗の教えを聞くきっかけでした。
それは今では、「なるほどな」とわかっているつもりですが…。
増井先生 確かに驚きだったのでしょうが、驚き程度で止まらないで、深く聞いていくことが大事じゃないですか。
例えば、「父母の孝養のために念仏する」のは、普通なら善だが、真宗では先祖供養のための念仏は悪いといわれます。
なぜかというと、そこに二つの問題を含んでいるからです。
一つは、
「先祖は、この世の親だけではない。生まれかわり死にかわりしている間に、どれだけの両親や先祖を頂いてきたことかわからない」。
それが仏教の先祖観です。
私達の感覚とは違います。
なぜ、仏教はそこまで言うのか、と聞法を深めていくことが重要ですね。
自分は、この世の両親の間だけで出来てきたものじゃない。
生まれる前からも、ズッと自分があった。
生き死にをどれだけ繰り返してきたかわかりません。
それが、たまたま今の両親を縁として生まれてきたのだが、その繰り返しが「迷い」だと。
「悟り」は、そういう流れを断ってしまい、仏になることです。
随分、深い考え方ですね。
もう一つは、その念仏は、自分が造りだしたものではありません。
生死の迷いを断ち切るために、仏様が考え出して、最後の切札として教えてくださったものです。
だからそれを自己流の親孝行のために、利用するということはできません。
というのが、もう一つの問題です。
仏様の救い-念仏というのは、どういうものかということですね。
以前のI君は、お題目を唱えていたでしょう。
お題目は、自分が唱えるわけだが、念仏というのは、自分が称えるのではなくて、称えさせられるのです。
称えさすもと、それは私が救われるもとである、原理としての南無阿弥陀仏なのだという考え方です。
それが自力と他力という大きな違いですね。
少なくとも、ここには、二つの問題があるわけです。
―仏こそが最高善―
色々ご意見がでましたが、本題に戻ります。
善悪ということも、私は、仏教や真宗の見方に立った善悪観をもたないと意味がないと考えています。
まず、社会や時代によって移り変わる善悪観。
例えば、日本ではよいがアメリカではダメ、年寄りと若い人では違うというのでは具合が悪いのです。
いつ、どこでも変わらないものが、宗教上の善悪として求められます。
そのキーポイントになるのが、「仏に成る」「迷いを離れて悟りを開く」ということです。
今、私共は迷っているのだという自覚をもつ。
そしてそこから解放される世界、それが仏になるということです。
言い換えたら、私共は善悪から抜けきれない、善悪の虜(とりこ)になって生活している。
毎日の生活はよしあしばっかり。
しかもその基準がどこにあるかというと、自分の都合を中心に動いている。
社会や家族のタメと言いながらも、その裏には自分というものが抜けない-というのが、仏教が教える人間の善悪観です。
それでは、仏教の最高の善とはなにか。
そこに絞れば、焦点がハッキリします。
私共は、毎日の生活の中で善悪を言っているが、それは本当に小さなことです。
本当に自分を殺してでも、世の中のため、すべての人のための幸せを願い抜き、貫いておられるのが仏様です。
人間だけでなく、すべての生きとし生きるものを、迷いから抜け出さそう、我と同じ仏に成らそうという、こんな壮大な善は、他にありえません。
究極の善は、仏に成ること、成仏です。
成仏といっても、それは死んだら仏ということではありません。
仏に成るとは、自利利他不二が完成することです。
自分のためにする自利と、他人のためにする利他とが、分けることができないのです。
いつも思うことは、みんなの幸せ。
みんなが幸せにならないと、自分も幸せになれないという、その思いで貫かれていて、そこになんの矛盾もありません。
しかも、そのことを実行するだけの力を身につけたのが仏様なのです。
だから、その成仏に向かって進んでいこうとするのが善であり、逆にそこから背いていく、それを妨害していくことが悪だと考えたら、一番ハッキリ、スッキリするのではないかと思っています。
そして、私共には、不可能に見える自利利他不二を、敢えてやり通した人が、この地上ではお釈迦様です。
そのお釈迦様の教えを聞いていこうとするのが、仏教徒です。
そうすると、その逆が悪です。
仏教など聞きたくもない、目の前の自分の幸福のみを追求している。
「いや私は、社会のため、家族のため」と言っていても、「ホントか」と突っ込んでいったら、所詮は自分のためでしかない。
そのうえ、二重三重の偽善をやっている。
そういうところが、引きめくられていきます。
自利利他不二の最高善の鏡の前に立って、自分が照らしだされていきます。
しかも、その仏教の善は、人間一生の間だけで完成できるものではないと教えます。
そういうふうに、結論から言うと、抵抗がありますかね? それでは、もう少し身近な質問をしましょう。
(座談)悪人、善人の自己評価
では、皆さんは、自分で考えて、自分というのは、いったい善人なのか、悪人なのか、それを尋ねてみましょう。
自己評価です。
次の5つの中から、目を閉じて手を挙げてもらいましょう。
(「 」内はその結果)
1、絶対、善人………………「0人」
2、絶対、悪人………………「7人」
3、まあ善人かな……………「0人」
4、まあ悪人かな……………「2人」
5、どちらとも、いえない…「4人」
ハイ、目を開けてください。
「どちらともいえない」という人は、きっと一言あると思います。
他の方でも、なぜそこにあげたのか、もしよかったら言ってもらえますか?
Sくん 5に挙げました。
最初2に挙げようとしましたが、頭の中では「悪人や」と思います。
でも、さらに突っ込んで問うてみると、どちらともいえない気がするので、それで5です。
Kさん 2に挙げましたが、自分のことを「善いやつ」と思っとる時も多いが、それに気がついたりして、やっぱり悪人です。
要するによううぬぼれとるだけです。
Tくん 私も2でしたが、最初は「まあ悪人」ぐらいにしておこうと思ったんですけれど、そこでふっと、こんなに聞いていても、まだそんなこと言うんやから、こら「大悪人」だと、あらためて知らされました。
Yさん 5に挙げました。
さっきは、道徳と宗教の違いとか、偉そうに口では言いましたが、実際は、家のためにやっていることとか、職場で人に迷惑をかけないとか、そんなことを考えると、「悪人」ともいいきれません。
でも、心の中で始終思っていることは、自分の幸せを願い、他人をうらんだり、そんなことばっかりの「悪人」という時もあるので、5です。
増井先生 つまり評価の仕方で、変わってくるわけですね。
Iくん ぼくは、4に挙げました。
どうしても「まあまあ」が染みついています。
信先生 仏青では、「I君は善人」という評価だけれど…。
Iくん 僕としては、悪人と思いたいのですが(笑い)「ホンマか」といわれたら、どうも。
「まあ」ですね。
増井先生 これは、その時々で変わるでしょうね。
絶対、悪人と思える時もあるでしょうが、わしほど偉いやつはないという時もあるでしょう。
でもどういうわけか、善人という人はないですね。
果たして、本当なんかな?
信先生 どっちらが正直なのですかね。
悪人と挙げた人が本当に正直なのか。
本心では、善人と思っているかもしれない。
K先生 僕は2でしたが、仏様に「悪人だ」と教えてもらったから。
でも、やっぱり自分では善人、1と思っているのですね。
両方の気持ちが、強くあるわけです。
いつも聞かせてもらっていて、悪人と分かりきっていると思っていましたが、もう一度改めて考えてみると、案外「善人やな」とも思っているのですね。
だから、ちょっと手を挙げる時に迷いましたが、やっぱり2です。
Mさん 私は、絶対悪人とすごい自信(笑い)があったのですけど、今はたまーに「善人かな」と思う(笑い)。結局は、自己満足なのですけどね。
―自力の道と他力の道―
それでは、次に進みます。
さきほど、自利利他不二の仏様、お釈迦様の話をしましたが、そのお釈迦様によって説かれた教えが、仏教です。
仏教には、教・行・証の三段階があって、まず教えを聞いていきます。
そしてその教えを体にかけて実践し修行していくのが、行です。
その結果が、悟り、仏に成ることで、それが証です。
その証へと向かう実践の道、仏道、成仏道に二種類があります。
まず、一つは、自分もお釈迦様のように努力して頑張ろうという、自力の道です。
現世で、自分の力で仏になろうとします。
もう一方は、他力の道。
自力では、とうてい仏になれない。
自分中心の考えばかりで、慈悲心のかけらもないという者に代わって、仏様が修行してくださって、その修行の結果(証)をあげるから、それで仏になっておくれ。
その仏様が、阿弥陀様です。
阿弥陀様のことを教えてくださったお釈迦様の教えをとおして、阿弥陀様を信じていくのが、他力の道です。
共に、究極の証は同じです。
仏に成るという最高の善をめざしながら、そこに至るのに、善業功徳を積んで、真に善人になっていく道(自力)と、悪人の自覚を通して、お救いをいただいていく道(他力)とがあるわけです。
お釈迦様の八万四千の法門の多くは自力の行ですが、最後に阿弥陀仏の本願を説く『大無量寿経』を説かれました。
それによって、自力ではとうてい救われない者のための教えが明らかになりました。
時代が下がればさがるほど、末法になればなるほど、阿弥陀様の教えは光って来るのだということです。
私共は、そういう時代に生まれてきたわけです。
(座談)阿弥陀様のお目当ては?
では、その阿弥陀様によって救われる、悪人とは誰でしょうか? その悪人とは、1~5の、どれにあたりますか?
K先生 2の悪人。
増井先生 「まあまあ」では駄目で、絶対悪人ということ…。
Tくん 1以外の全部を含むのでは…。
信先生 阿弥陀様は、善悪は問題じゃないといわれるのだから、この場合は、全部とちがうのかな? 善人は救わんとはおっしゃっていないんだし…。
増井先生 まあ、そうでしょうが、「悪人正機」といった場合はどうでしょうか?
「正機」とは、茶道で「正客」とも言うが、一番大事なお客さん、お目当てということです。
そうなると、極悪人の私こそがお目当ですわね。
仏様は、善人も、悪人も救う。
まあまあの人も、わからないと言う人も、救わずにおれんというのが、仏様なんですが、私が、阿弥陀様の前にでて、仏様の前に近づいていくと、悪人になってしまいます。
そして、悪人の自覚に徹底出来たらどうなるか。
一番最初、成仏が最高の善と申しました。
つまりご法を聞かせてもらったら、善人になるのと違いますかね。
自分の自覚は「悪人」です。
しかし、仏様は「いい子や」とおっしゃる。
「よう聞いてくれた。あなたほど立派な人はおらん。妙好人、善友だ」と。
でも、そう言われれば言われるほど、申し訳ないと、ますます悪人の自覚が起こるという性格のものですね。
ご法を聞かせてもらっておりながら、「わしゃ善人と違うかな」と思っている時は、仏様と離れている時です。
逆に、仏様のことを思わされたら、「なんという恥ずかしい悪人だ」となってきます。
それが、浄土真宗の救いの特異性なのでしょうね。
―神様、諸仏、阿弥陀様―
宗教にも色々ありますが、ひとまず「仏教」以外の教えを、「神様の教え」と荒っぽくひっくるめます。
さらに、「仏教」と「真宗」とに分けて、三つの教えが、私達にどう呼びかけ、誰を目当てにされているかを考えてみましょう。
まず、
(1)神様の教え。
日本の神様の教えは「まっすぐ」が問題になります。
正直になってこい。
次ぎに、
(2)仏様(仏教)の教えなら、まず「善人」になれ。
これが、お釈迦様の説かれた、阿弥陀様以外の諸仏の教えです。
最後に、
(3)阿弥陀様(真宗)の教えは、今あるがままでよい。
悪人のままでいらっしゃい。
つまり、神様は正直になって、諸仏は善人になって、阿弥陀様は、悪人のままでいらっしゃいといわれます。
こういう違いがハッキリしているわけです。
―善人悪人の基準―
それでは、その悪人や善人をどこで決めるのでしょうか。
例えば、道徳なんかでは良心というでしょう。
良心の基準は、その時代や社会や、また個人によって変わるでしょうが、どんな場合であっても、良心のカケラも持ち合わせていないと反省するのが真宗の立場です。
全部、自分の都合しかありません。
私にあるのは、自分の幸せだけで、その都合で、頭も下げる、自己犠牲も辞さない。
ここに一例をあげます。
池に、ヨチヨチ歩きの子が近づいています。
みんなならどうしますか。
「あぶない」といって助けにいく。
落ちんように手を添える。
その時に、親の礼を期待したり、他人の目を気にしたりはしませんね。
パッとやるんじゃないですか。
人間だったらみんなそうするんだ、というのが性善説というものなんです。
それに対して、仏教や真宗はもっと深いのです。
子供がダンダンと深みに入っていった。
とっさに助けにいくところですが、もし自分が泳げないとなるとどうなるのか。
その子が、自分の子供でなくて、他人だったらどうか。
また、人間だったら助けるが、もし小犬だったらどうするか、蝶々だったら……と、きっと反応が違いますよね。
相手によって、状況や、縁によって、行動が違うのが私達ではないでしょうか。
例えば、赤ちゃんね。
夜中、疲れていても、お乳をやったり面倒をみるのは、わが子だからでしょう。
他人の赤ちゃんが泣いていたら「うるさいな」となります。
そのように、「わが」がつくと、態度が変わってしまうというのが、私の浅ましい姿です。
行動ではなく、心の中を考えてみたら、もっと嫌らしいものがドロドロしているのですね。
以前、テレビの動物番組で、赤外線カメラで巣穴の生態を写していました。
そんなもので、私共の腹底を映し出されたらどうでしょうか。
大きな顔をして、人の前には出られないじゃないですか。
それで、少なくとも、仏教では、諸仏方は、私共が、悪から悪へ転落していくのが、見ておれないので「どんなことがあっても、善人になっておくれ」と教えずにはおれません。
親が子を育てる思いと同じなのです。
にもかかわらず、私は善人になれません。
そこで、阿弥陀様が現れてくださって、「そのままでいいから、グズグズせずに早くいらっしゃい。
私にまかせない」と、おっしゃってくださるのです。
―内道と外道―
ところで、仏教では、仏に成る道、つまり仏道を内道といいます。
それに対して外道(げどう)があります。
それは仏に成ることを目的にしていない教えです。
中国の儒教や道教(もちろん性善説も性悪説も)さらには、今日の新興宗教も含めて外道の中に入れます。
つまり、現世だけを問題にしているから、三世因果の道理に背く教えだというのです。
その意味で、仏教は正教というのにたいして、外道を邪教ともいいます。
―真・仮・偽の教え―
さらに真宗の立場からいうと、親鸞様は、真(しん)と仮(け)と偽(ぎ)の教えに分けなさいます。
このうち「偽」とは、さきに言った外道、つまり邪教のことです。
この邪教の教えは問題外というわけです。
次に「真」と「仮」というのは、真宗と仏教という分け方です。
親鸞様に言わせると、他力の教えこそが「真」であって、お釈迦様が最初説かれた自力の教えは「仮」だと。
邪偽ではないが「権仮(ごんけ)」だといいます。
それは、真実にはいるための方便、手だてとして、受け入れ体制をつくる宗教教育だというのです。
例えば、小・中・高・大学で、大学が究極の真実とします。
では小学校は、ウソかというとそうではありません。
それぞれが相手の成長に合わせただけのもので、すべて大学を目指しています。
そういう立場が「仮」です。
したがって、いつまでもそこに留まっていてはダメで、早く阿弥陀様のお救いにあわせてもらう。
言葉をかえていうと、悪人に徹底させてもらう。
そこまでに階段をつくり、私の成長にあわせて骨を折ってくださったのだと知らせてもらったら、「もうこの辺で結構です」と、中途でとどまっていてはダメです。
「悪人でした」と、頭を下げて仏様の懐に飛び込んでいくことが、一番、正直にもなり、善人にもなり、本当の意味での仏様のお救いにあわせてもらうことなのです。
世間での善悪と、仏教の善悪、さらに真宗の善悪とは、内容的に違うわけです。
その善悪-自分中心で生活している善悪から、それがいかに恥ずかしいことかをわからせてもらうことで、頭を下げさせられる心境が与えられていくわけです。
―信罪福心が自力の正体―
この「方便」の段階で出てくるのが、「信罪福心(しんざいふくしん)」の問題です。
親鸞様は、これを罪福を信じる心とおっしゃっています。
ー善をすれば、幸せ(福)になれる。
悪をしたら罰をうけ、不幸(罪)になる-という考え方です。
そしてこの思いが、自己中心の善悪を深めさせていくというのです。
それこそが、他力に入りきらせない自力の正体で、相当に根が深い。
罪福心が心の中にある限り、善悪から離れることができず、常におそれがついてまわります。
例えば、小さな虫ぐらいなら、平気で殺したり、踏んだりしますが、相手がちょっと大きなもので、「ウーン」とうめき声でもあげるようだったら怖いでしょう。
殺さないというのも、その結果をおそれる心があるからです。
つまり幸(福)、不幸(罪)にこだわる心が離れられないから、そこから善と悪にこだわるわけです。
そのかぎり腹底からの信じきる、まかせるという安心感が起こらないのです。
たしかにこの信罪福心は、一面では自分のあさましさに気付いて、阿弥陀様に向かおうとしているようです。
しかし、その本心はというと、やはり、自分の不幸の肩代わりとして阿弥陀様を利用しているだけです。
なんと恐ろしい腹底なのでしょう。
しかしそれが私というものだ、なんという極悪人かと、はっきり知らされてくると、はじめて善悪のこだわりがなくなります。
怖いものなし、おのれほどの悪人はない、「地獄は一定すみかぞかし」となります。
阿弥陀様が、私に代わって地獄に落ちてくださるのだ、そして大手ひろげて、お前の罪、悪業を全部引き受けたと呼んでいてくださる。
その阿弥陀様と一つにならせてもらう時に、この罪福心から離れられるわけです。
―まとめ―
以上のように、成仏という目標に立った善悪観というのは、仏教にとっては、とても大切なことです。
これを仏教は善因善果、悪因悪果と教えるわけです。
ところが、この自分にとっては、その善悪因果の教えに照らして落第生だと内省自覚させられる人には、阿弥陀様の救いが開けるのです。
それでも、自力のはからい心が捨てきれない間は、善悪のこだわりから離れられません。
つまりは、善悪をえらばず、そのまま救うという阿弥陀様の心とは一つになれません。
それが、信罪福心の正体だと自覚されるとき、はじめて、真の悪人の自覚とともに、善悪のこだわりから解放されるのです。
そのことが、信心一つで仏になるという、真宗の根本主張なのであります。
(平成6年・仏教青年会「善悪について」より)

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