人生の目的
著 者 | 増井悟朗 師 |
掲載号 | 華光誌 60-1号 平成13年1月発行 |
※音声を聞きながらお読みいただけます。
『浄度菩薩経』にいわく。
「人寿百歳なるも、夜、その半(なかば)を消す。
すなわちこれ、五十年を減卻(げんかく)するなり。
五十年の内について十五已来は、いまだ善悪を知らず。
八十已去(いこ)は昏耄(こんもう)虚劣(これつ)なり。
故に老苦を受く。
これよりのほかは、ただ十五年あるあり。
中において、外にはすなわち、王官(おうかん)逼迫(ひっぱく)して長征(じょうしょう)遠防(おんぼう)し、あるいは繋(つな)がれて牢獄にあり。
内にはすなわち、門戸の吉凶・衆事にひきまとわれて、焭々(けいけい)忪々(しょうしょう)(=憂えに沈み・心せわしい)として常に求むるに足らず。
かくのごとく推計するに、いくばくの時ありてか、道を修することをうべきか。
かくのごとく思量するに、あに哀(かな)しまざらんや。
なんぞ厭わざるをえんや」と。
(安楽集・第九大門)
仏法が聞ける時間
道綽禅師の『安楽集』の中にお釈迦様の『浄度菩薩経』のお言葉を引用なさって、いかに私共に与えられた仏法を聞く時間が少ないかを嘆いていらっしゃる。
53巻2号(平成6年4月)の「聖教のこころ」にも掲載しました。
『浄度菩薩経』には、人間の寿命を現在は人寿百歳と仏教では申します。
でも、「夜、その半ばを消す。
すなわちこれ五十年を減卻(げんかく)するなり」。
1日、12時間も寝る人はないが、寝る為の準備を合わせたりで、1日の半ばは、それで終わってしまう。
すると、残りは50年ですが、やはりまるまる聞くわけにはいかん。
まずは若い時、「十五已来は、いまだ善悪をしらず」つまり15歳までは、善悪が分からず因果応報も承知できない。
如来様のご苦労、あるいは自分が罪悪深重だともわからない。
例外がございまして、華光会のご因縁のあるお子さんは15歳までに法を聞いた人も、沢山おるんです。
最低が4歳8カ月、常識では考えられませんが、私の娘でございます。
でも、普通は、50年のうち15年を引かねばならない。
さらに80歳以後の残り20年も、「昏耄虚劣(こんもうこれつ)」-昏とはたそがれ、暗い。
耄とは耄碌(もうろく)と熟語をして、惚(ぼ)けてくることです。
心が暗くなってくる。
虚劣とは体が弱って衰えてくる。
ご法座に出ても、充分理解も出来ないし、すぐ忘れてしまう。
かって、アメリカ布教に十数年間、毎年出かけていたのですが、ご法義どころの日系の人達が、正面向いたまま身じろぎをなさらない。
普通、皆さんが笑って下さる話題も、とにかくまじめに前を向いてジッと聞いてなさる。
さすがは聞く姿勢が立派だと感心させられた。
ところが、後でお話をしてみますと、年取ってお話の中に入り込めず、しかも表情が乏しくなっておられる。
老化の悲しさを味わわされたわけです。
もちろん、80歳を過ぎて獲信なさる方もおられるが、「八十已去は昏耄虚劣(こんもうこれつ)」で、生老病死の「老苦を受」けねばならん。
「これよりのほかは、ただ十五あるあり」。
100年から50年を引き、さらに、15年と20年を引くと、残りは15年というわけです。
衆事にひきまとわれる
しかも、この15年間も、丸々法が聞けるわけではない。
仏法を聞けない縁が、内と外で起こってくる。
働き盛りの時は外側、「王官逼迫(ひっぱく)して」-現代のサラリーマンなら不況でリストラされるが、宮仕えは緊張感の連続です。
おまけに「長征(じょうしょう)遠防(おんぼう)」とある。
インドや中国は広い国ですから、外国との戦や防衛のために遠くまで出征せねばならない。
サラリーマンには出征はないが、単身赴任にでもなると、仕事だけでなく、身の周りの生活も大変。
「あるいは繋がれて牢獄にあり」。
今昔を問わず、上司の罪を被って中間管理者が牢屋に繋がれたり、あげくの果てには自殺者まで出てくる。
中々、仏法は聞けません。
さらに、内にも問題がある。
「門戸の吉凶」-一門の内にめでたい事が吉、不幸な事が凶です。
今回も旭川のMさんは、以前に「ぜひともご示談に伺いたい」と連絡があったが、間もなく折内家での法座があるというので、その時のお約束をして、「必ず、伺います」とおっしゃっていた。
それが、凶の方です。
お嫁さんの長男さんが、今日明日もしれん臨終間近の人。
「お義母さん、いかんで下さい」。
それを振り切っては出てこれない。
そんなことが次から次です。
年を取ると、ますます香典を出すのに忙しい。
吉の方も、親類が増えて忙しい。
私のところも、ちょうど内孫ができて、どれだけ時間を取られるかわからん。
吉凶にかかわらず「衆事にひきまとわれて」、いろんな仕事や出来事に奮闘している。
そんなことで、ご法を聞く時間を失うていくわけです。
そのことを焭々(けいけい)忪々(しょうしょう)と申します。
焭々(けいけい)とは、悲しいことの場合は憂いに沈む。
忪々(しょうしょう)とは、心がせわしい。
そして「常に求むるに足らず」。
いつも法を聞くわけにはいかない。
このように推し量っていくと、どれだけの時間があっても道を修めることができない。
「あぁ、人生悲しいなあ。
仏法を聞くべき時間が、どうしてこうも少ないか。
後回しすればよいことを先におこなう。
人生はかくのごとしだと厭わざるをえん」とおっしゃった。
持ち駒(ごま)を調べよ
そのこころを、聞きうる「持ち駒を調べよ」と題して、『聖教のこころ』に記した。
駒(こま)とは将棋の駒。
「持ち駒」とは、敵の駒を討ち取った場合は、自分がそれを使える。
その自分の手元に何があるか? 金も銀も歩(ふ)も持たない。
打つ手がないのが実情だというわけです。
誰もが、同じ一線上からスタートをするのが人生。
裸で生まれてきて、名門に生まれようと、困窮家庭に生まれようが、出発点は皆同じ。
人生という料理は、同じ材料を使ってご馳走を作るんじゃないですか。
なのに、法を聞ける人と聞けない人の違いが出てくるのは何故か。
そう煮つめて考えていくと、聞きたくない人には、用事が次々と追ってくる。
この「壮年の集い」でも、是非参加すると申し込まれたら、他の用事が出来ても、「その日は、困ります」とその用事を断る。
反対にご法が嫌いだったら、差し繰りされるほうにご法縁が回るんですね。
「先生、東京から孫が帰ってきますので、お参りできません」。
別に私におっしゃらんでも、あなたが参れずお気の毒なだけです。
まあ、心の中では、「参りとうないから用事もできるし、忙しくなるわ」と、私は思ってるんです。
つまり、「浄土へ往生できる人と地獄へ落ちる人の分かれ目は、聞く心のあるなしではなかろうか」と締めくくったわけです。
私の手元に聞くべき時間は限られてますよ。
だから濃縮した時間を自分で作り出して、ご法を聞くべく努力をせんと駄目ですよ、というお戒めのお経様であります。
果たしてわたしどもに与えられた時間が15年あるかどうか。
しかも、これは100歳まで生きるとしての計算ですから、若死にするかもしれん。
一寸先はわからんのですね。
「生活」と「人生」
人生に造詣が深くて、何でも知っていて、何でもできる。
そんな人生の達人は、案外と仏法を聞かん。
世智(せち)弁聡(べんそう)といって、仏法が聞けない八難の一つにあげられている。
世の中の知恵があり、弁が立って頭がよい人はご法座にあまり来ない。
たまにそんな人が法座に来たら眠るんです。
世間事で人に負けまいと一生懸命努力して、緊張の連続。
ご法座へ来たらホッとして眠りだす。
もちろん、例外はありますが。
一難去ってまた一難で、私共の生涯に暇な時間はないですね。
子供は子供で忙しい。
でも、生活するだけで一生涯を終わってしまうのなら動物と同じ。
食べること、着ること、寝ること。
それを人より以上に上手に工夫して、立派な生活、豪邸に住み、高級車に乗って、肩で風きって歩く。
それで本当の幸福ですか? もう一遍考えてみないかん。
「生活」には目標とするところがある。
それが「人生」。
生まれて死んで行くまでの一生涯の間に、どんな生き方をするかという問題なんです。
その日その日がよければという事ではないのです。
女性と男性の相対的な違いは、女の人は生活上手。
男の人は人生設計を考えていなさる。
黒河達児さんの『親聞』を見てても、黒河さんと奥さんの間にどうやらその食い違いがあるみたいです。
奥さんは、まめに働いて一生懸命頑張りなさる。
だから、「うちのお父さんは役にたたん。」そんなことないんですよ。
私が知ってるかぎりでも、買い物かご下げて買い物なさったり、掃除をしたりと、お手伝いをしてなさると思うんですが…。
まあ、生活というのは人生を目標にせんと駄目だと。
「えらい嫁さんもろた、一生の不作」と後悔してる頃は、お嫁さんでも、「えらい男のところへ来てしもた」。
その親も同じように思うとる。
だから人生というのは、生活よりもちょっとレベルが高い。
だから仏法の話は、生活レベルでしか物を考えていない人には、どうも入らん。
そんな人でも、新興宗教の、お金儲けや、健康で、家庭が仲良く暮らせるかという話なら聞ける。
ところが、何のために生まれてきたのか、こんな日々でいいのかと、人生を問題にしている人でなければ、仏法は聞けないのです。
仏法を聞くための人生
しかし、それは自分の頭でどれだけ考えても答えはでない。
そこに、お釈迦様が悟られた真実の法を聞くための人生だと気がついてこないとわかならい。
ところが、その仏法も、何とはなしに習慣で聞いているのでは、自分の都合のよい聞き方で終わる。
人生の艶(つや)出しのために聞いていくのではない。
仏法はむしろ自分が法によって切られないと駄目なんです。
自己否定される。
どんな否定のされ方をするかというと、「いつまでも生きとれん、今晩もしれん。
しかも今日まで生きてくるのに、どれだけ罪を作ってきたかしれんぞ。
あさましい、罪悪深重、煩悩生死の凡夫」とお叱りを受けるのです。
そしたらどうしたらいいのか?「お浄土へ往生しなさい」。
この人生は浄土に往生し、即成仏する。
仏に成らせてもらう為のものです。
その為に、ご聴聞するのです。
そう目標を立てるのです。
ただ聞いているだけでは駄目。
聴聞の目標は? というと、信心を得る、獲信ということです。
この信心が浄土往生の種になる。
それをいただかねば、この人生はなんの為にあるのかもわからぬまま、酔生夢死をするぞ。
生きてる間は酔うているようなもので、ああ夢だったと死んでゆかんならん。
ところがそういう人生ならばこそ、ご法を聞く為にある。
しかも真実信心をいただき、お浄土へ往生する。
そこまでは迷いを繰り返してきても、二度と迷わん仏にならせてもらう為にこの人生はあるんだと。
そうなると、ガランと生きざまが変わってくるんです。
白隠(はくいん)禅師のこと
江戸時代、将軍吉宗のころに、臨済宗に白隠禅師というお方が出られた。
浄土真宗で申します蓮如上人のようなお方で、衰えていた臨済宗の勢力をグッーと伸ばす活躍をされた中興の上人です。
松蔭寺(しょういんじ)に住持されていて、常時数百人のお弟子が集まって、一生懸命に修行に打ち込んでおられたそうです。
禅宗には公案(こうあん)がございまして、臨済宗は特にはっきりしていますが、お師匠様から問題をもらう。
沢山ありますが、例えば、「父母(ぶも)未生(みしょう)以前の一句を道取(どうしゅ)せよ」。
お父さんお母さんから生まれてくる前は何だったか。
それを考えてよ。
そんなもん考えられますかな。
そこをもじって「闇の夜に 鳴かぬカラスの声きかば 父かとぞ思う 母とぞ思う」。
真っ暗な夜に、鳴かぬカラスの声をどうして聞くんですか。
生まれて来る前のお父さんお母さん恋しいてな。
それを一生かかって答えを出すべく修行する。
そして、お師匠さんのところへ答えをもって行く。
「駄目、やりなおせ」と叱られる。
「よし」と印可をもらえば、その師匠の跡が継げるのだが、何百人もが松蔭寺の白隠さんの元で真剣に修行しておった。
隻手(せきしゅ)の声
白隠さんの有名な公案が「隻手(せきしゅ)の声」。
隻手とは片手。
片手に声あり、聞け聞けというんです。
両方なら、叩(たた)けますが、片手に、もうすでに声あり。
鉦(かね)がなるのかブチがなるのかわからんね。
ある人は、鉦とブチとのあいがなる。
チーンと叩いた間になったんだと。
それは月並みですね。
ここでは、「片手に声あり 聞け聞け」と言われる。
どうして聞くか? 何百人もの若い僧が、片手の声を聞こうと一生懸命に座禅してる。
それを門前の八百屋さんが、「バカなことを。
仕事をして働けば、国も富んでいくのに、道楽にそんな所に座り込んで、あたら青年が…」といつも思ってたんです。
それでお寺の門のところに張り紙をした。
「白隠の 片手の声を 聞くよりは、両手たたいて商いがまし」。
すると「お師匠様、こんなこと書かれました」と、持っていくものがあった。
「ああ、そうか、それも一理じゃ。
これを」とサラサラと書かれた。
「商いが 両手たたいて なるならば 片手の声は 聞くにおよばず」。
両手をたたいたら商売できると思ってるけど、両手をたたいてもお客さん来ん時があるやろ。
思うどおりにはならん。
それが人生や。
甘く人生をみなさんな。
おまえは片手の声を聞かんでもよろしい。
両手たたいて儲からん商売しっかりせい。
という意味でしょう。
まぁこんなお方です。
ある時、寺から出火した。
若い雲水が必死になって消火作業を行い、「お師匠様、火事は庫裏の一部を焼いただけで、鎮火いたしました。
ご心配をおかけして申し訳ございません」と、息せききって弟子が報告にきた。
「そうか、ご苦労だった」とねぎらいの言葉があると思ったら、「言うことなかれ。
無常の黒火は、今も汝が頭上に燃え盛れり、消えておらんぞ。
ご安心めされとは何事じゃ」と、反対に叱りなさった。
これが白隠さんの偉いところで、絶えずご自身に無常観をもたれ、又お弟子達を何とかお悟りの世界へ導こうと命をかけていられる。
だから、火事のような非常時でも、サアッとそんな声がでるんです。
『法華経』に、火宅無常のお譬えがありますが、お経を読みながら「ほんまかいなぁ」と多少疑念があったんですね。
すると、座禅中に突然ワーッと火に包まれたんだそうです。
「仏説おそるべし、仏説には嘘(うそ)偽りはない。」だからそこから飛び出ていかないかん。
火の中で、毎日儲けた損した、腹立つ悔しい、上手くいった、思うようにならんと、一喜一憂するだけで終わっておっては駄目じゃないかと。
招かれて参る浄土
さて、白隠さんは、浄土真宗の教えが好きで、理解を示された。
ある時、妙心さんという尼さんで、真宗の得信者、妙好人と言われる方に、「真宗でもこの隻手の声の話はするか」と聞きなさった。
みなさんどう答えられます? 今回は、アメリカから中渡瀬さんがご参加だが、あるアメリカのお同行さん、さすが合理主義の考え方。
「片手でも振ったら音が出ますよ」と、でもそれは屁理屈(へりくつ)。
でも、妙心さんは即座に、「片手にも 声あらばこそ 招かれて 弥陀の浄土に 参る妙心」。
うまいこと言うたね。
阿弥陀さん、片手上げて来いよ来たれよ、はよう来いよ。
隻手の声が聞こえる。
「呼び声を聞かせてもらって、弥陀の浄土に参る妙心」。
白隠さんも唸(うな)ったが、それであとに引くような白隠さんではない。
「片手が聞こえりゃ、お前はどうか」。
片手は阿弥陀さん、おまえは両手あるが、その両手はいらんじゃないか。
これもうまい理屈です。
でも、妙心さん即座に詠まれた。
「招かれて 弥陀の浄土に参る身は 両手合わせて 南無阿弥陀仏」。
さすがの白隠さんも「参った」。
さすが一文不知であっても、阿弥陀仏のご本願に含まれた徳は、偉大なものだと、念仏者を讃嘆なさったという故事があるのです。
仏智をいただく
本当に行き着いてみたら、禅でも念仏でもそういう味が出てくるんでしょう。
でも私共は、近道させてもらわないかん。
片手にも本来声がある。
「阿弥陀さんの呼び声じゃ」と言われ、そして、弥陀の浄土へ参る妙心は、両手合わせて南無阿弥陀仏。
と言われれば、白隠さんも二の句がつげません。
やっぱりこれは仏様の知恵をいただいたおかげです。
その智恵をいただくことが、信心をいただくということです。
そして日常生活の中に、仏智が縁にふれ折りにふれ、お味わいになって出てくる。
そういうご法でないと、本当に聞いたとは言えません。
私は、北海道に毎年一度は寄せてもらう。
その時だけ「有り難い」と喜んでいても、間は何をしてるか?
私も、人のことは言えません。
ご法縁に会わせていただき、華光のお仕事をさせてもらう。
そのおかげでご法義が相続させていただけるんです。
それを抜き去ってしまったら、『浄度菩薩経』のお言葉通りで、「衆事にひきまとわれて」落ちていくだけしかない。
浅ましいわが身
前々号の華光誌に、腎炎再発と書いて、皆さんにご心配をおかけした。
その後、次第に良くなってきたんだが、もう発行してしまった。
勿論用心して、医者の申すとおり、酒は絶対駄目。
一月半、二ケ月ほど飲みませんでした。
私の酒は朝や昼からとか、付き合いで飲まにゃならんというのではない。
寝る前の睡眠薬がわりという生活がズッと続いているもんですから、飲まんと朝まで眠れない。
これでは、かえって体に悪いじゃないかと思うことがしばらく続きました。
その時に味わうたことです。
眠れんということは、寝ても覚めても念仏申せと蓮如様がおっしゃるんだから、お念仏を称えさせてもらおうと思って、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏しだした。
その次に出てくるのは、何が出てきたか? 腹の底から「ワアーッ」とあくびです。
三回のお念仏でおしまい。
あさましいなあ。
私の正体は、いよいよ仏法聞きたくない心やと思ったですね。
昼や入浴中など、念仏を称えてもあくびが出ませんね。
機・法の両面から味わい
しばらくそんな恥話をお話していたが、日がたつにつれお味わいが変わってきました。
というのは、就寝時には、妄念妄想悪業煩悩で狂い回って、身も心も疲れてるわけですから、眠いはずです。
そんな時、お念仏をする。
こちらは忘れどおしでも、仏様は、大悲ものうきことなくして常に我が身を照らして下さっとる。
私がおもわず知らず「南無阿弥陀仏」と言うたら、「ご苦労やなぁ。
疲れとるやろなぁ」と、本当の心身の状態が出てきて、ウワーとあくびになる。
布団の中で背骨や胸を伸ばすと、深い息ができて、入眠していくんですが、念仏したあくび後の呼吸はそれどころではない。
とても深い深い呼吸になるんです。
如来様が「おまえはご苦労、もうそろそろ寝なさい。
そんなに力んでお念仏せんでもよろしい」と、眠らせて下さるんやと気がついたんです。
都合のよい考え方やと皆さん思うかもしれませんが、私は参ったね、これには。
こちらは寝る事しか考えてないけど、寝た間も守りづめの仏様があったんじゃなと思わせてもらうようになった。
だから機の側からと、法の側からとお味わいがとらせてもらえるという事は、仏智がいつも私の中にいて下さる。
これで私は安心。
落ちる奴があるから、参る私があるんだと。
作らんでも、手放しのまま、生地のまましかない。
ありがとうもない、元気にもなれん。
時が来たら参らせてもらうしかないじゃないかと今は思っています。
ご法を聞くため、浄土往生させていただくため、二度と迷いのない身にさせていただくための聞法生活。
そういう事が、人間として生まれさせてもらい、日々の生活をさせてもらうことなのです。
食べておれば死なないか?
これは人に聞いた話ですが、昔、広島でご法を聞いたお同行が内務大臣に就任された。
世界の聖人のお像を作り、それを安置するお堂を建立する役をなさった。
昼休みの時間に、現場へおしのびで監督に行かれた。
工事は思った以上に進んでいる。
労(ねぎら)いの言葉が思わず出て「皆さん、ご苦労さん」。
労働者は変な奴が来たと思ってる。
「ときにあなた達は、どうしてこんなに頑張って仕事をするんですか?」「家族を養うためには当たり前でしょう」「何が為に家族を養うんですか?」みんな白い目で見たね。
「働かなきゃ、おまんま食えんでしょう」「おまんま食べていたら死なんのですか?」ちょっと考えさせられますね。
食べねば確かに死ぬが、食べていても、死ぬ者は死ぬ。
「そこまで考えんかったなぁ」「そうでしょ。
でもこの先の話は、新聞でもラジオにも出てこんよ。
お寺へ行って、聞かせてもらいなさい」。
これは明治時代の話です。
後生の問題、何が為に生きてるのかということです。
でも、現代じゃ駄目。
お寺へ行っても、お経しかあげん。
まぁ、皆さんがしっかり儲けて、お寺にお金を運んでもらいたいのが、大方の坊さんの本音ですね。
道を求めた体験のない坊さんでいっぱいですね。
蓮如様と了妙(りょうみょう)さん
蓮如様のご時代に堺の国に日向(ひうが)屋さんという大金持ちがおったそうです。
貿易で財を成したのか、その日向屋さんは銭(ぜに)三十万貫を持っていたが、死にたるが仏にならず。
この世の中では成功者ですが、死んで仏にはならん。
大和の国の了妙尼さんは、貧乏で帷子(かたびら)一枚持ちかねた。
冬も帷子しかない貧乏生活であったが、この度(たび)仏になるぞとおっしゃった。
蓮如様は京都から大和の国を通って吉野山、和歌山の方まで布教の旅をなさっている。
若い時は東国行脚もなさいましたが、本願寺の基盤ができてからも布教の旅をなさり、その間の紀行文も書いてなさる。
ある夏の暑い日に、お弟子を連れて大和の八木という所にまいりました。
今日も金台寺さんというお寺が残っております。
了妙さんは元々は造り酒屋に嫁いで、豊かな生活をされていたが、主人が若死をするとその店もバッタリ。
貧乏暮らしの中で子供は育てねばならん。
惨めな生活で、人生の希望も何もない思いをしておった。
その了妙さんの所へ、たまたま蓮如様が一杯の水を所望といって立ち寄られた。
蓮如様は、ただの水をおし頂いて、「ありがとう。
おいしかった、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
もったいないことよ」と。
了妙さんはそれに心を打たれた。
「ああ、私は生活に不服不満で、貧乏暮らしを嘆く日暮らしだったが、求めるべきものが、何であったかがわかった。
このお方のお弟子になろう」と、お得度をなさって、了妙と法名をもらわれた。
糸車とお念仏
ある時のこと。
蓮如様が「元気かえ」と訪ねられると、コトン、コトンと繭(まゆ)から糸を紡(つむ)ぐ糸車を回す音がする。
「蓮如様、よくこんなあばら屋をお訪ね下さいました。
おかげさまで元気に糸車を回しながら、お念仏を称えさせていただいております。
了妙ほどの幸せ者はございません」。
「そうか、それを聞いて安心した。
だがな、ちょっと違うぞ。
今、“糸車を回しながら念仏をする”と言うたが、蓮如は、“念仏をしながら糸車を回す”と聞かせてもらっているが、どうじゃ?」「ああ、そうでございました。
よくご教化下さいました」という話がある。
糸車を回すのは生活であります。
人生での生活の一つの営みとして糸車を回すというわけです。
念仏も生活の一つとなり、念仏より生活が主となって、念仏も仕事も、生活におさまってくる。
それに対して、蓮如様がおっしゃるのは、人生はお念仏申さしてもらう為に生活がある。
糸車を回しながら念仏申すのじゃない。
念仏申し申し糸車を回しなされ。
これは言葉の前後を言ってるんじゃない。
意味が全然違うんです。
人生の目的が、浄土往生、成仏を目標として、ご法を聞かせてもらうわけであります。
つまり、生活は何の為かといったら人生のため。
人生は何の為かといったら聞法のため。
聞法には、獲信という糸の結び目が必要である。
その信心をいただけたらお浄土行きの身となって、その人生に光を放つ。
迷いの六道輪廻は打ち切りですから、大きなことです。
ところが糸車を回しながら、つまり生活しながら念仏するのだったら、念仏は生きて働いてない。
また、死後は六道に迷うていくしかない。
私のつかんだ念仏じゃ駄目。
念仏につかんでもらう。
仏様に摂取された後は、業報のままに、生きるままが、そこに仏様のおはからいが「待ってたぞ、よく聞いてくれたな」と味わえてくるんです。
仏法が主(あるじ)
皆さんより一日先に来た私共夫婦は、昨晩、宴会部長の工藤さんたちと、ここで一杯いただいていました。
その時に、「明日はみんなの血液の流れを調べますよ。
楽しみやなぁ」と、彼は言うてなさった。
その中には私も入っていたと思うんですが、家内が初めて北海道にきたので、五稜郭に連れていってもらって、そちらは欠席したんです。
そしたら何のことはない、私は風邪をひいて帰ってきた。
風邪を引くと思って行ったのではないが、もう私の生活、人生というのは、出たとこ勝負で、目標を持っているようで持ってない。
これを性懲(しょうこ)りもなく何度も繰り返し迷いぬいていくわけです。
それにストップをかけて下さる。
そのためにご法を聞かせてもらう。
そのための人生であったと、気付かせていただく。
ここが大きいんです。
だから仏法が主になってくる。
「世間は客人。仏法を主(あるじ)とせよ」という蓮如様のお示しが響いてきます。
だから、今ここでのお話を、この糸車の延長に入れていてはいけません。
仏法を聞くために、わざわざ北海道まで遥々(はるばる)こさせていただきました。
あの手この手のご方便やったと聞かせてもらうのです。
迷いの打ち止めをさせてもらわねば駄目です。
いつまでも生きると思ってたら大間違い。
必ず死が訪れてくる。
臨終になって、火の車のお迎えでは遅い。
お聞かせいただく端的に、法のお迎えをいただくんです。
南無阿弥陀仏の呼び声を、この耳に聞かせてもらうんです。
そういう真宗のご法は「煩悩を断ぜずして涅槃を得」という尊い教えであります。
聞いて、覚えて、帰ろうと思わずに、ご縁に会わせてもらう時しかないのだと覚悟してご聴聞いただきたいと思います。
(平成12年9月23日「北海道壮年の集い」法話テープより)
華光(同人会)入会
宗教法人『華光』の会員(同人会)についての説明はコチラでご確認ください。
機関誌『華光』申込み
華光会の機関誌『華光』の定期購読やサンプル、バックナンバーについて説明します。